日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第7回「妻の覚悟」

あまり突っ込み甲斐の無い展開が続くので、なんだか淋しい。
とりあえず今回は永禄十一年(1568)9月から翌年4月まで進みましたので、山内一豊が歴史上に現れる天正元年(1573)まであと4年となりました。まだまだ先は長いですナア。

永禄十一年(1568)の信長上洛

信長公記』をもとに主な出来事を整理してみると↓こんな感じです。

  • 7月25日、足利義昭を岐阜に迎える
  • 8月7日、信長佐和山へ
  • 9月7日、信長岐阜出陣
  • 9月12日、箕作城落城
  • 9月13日、観音寺城占拠
  • 9月26日、足利義昭を奉じて信長入洛
  • 9月29日、勝龍寺城*1開城
  • 9月30日、義昭・信長摂津芥川城*2に入城
  • 10月14日、足利義昭帰洛
  • 10月18日、足利義昭将軍宣下
  • 10月26日、信長京都出立
  • 10月28日、信長岐阜帰還

織田信長浅井長政の対面

信長公記』には見えず、おそらく軍記『浅井三代記』にのみ見えるエピソードかと。それもドラマの状況とは異なり、出陣の前月に佐和山城でのこととなっています。『信長公記』にも六角氏との交渉のため信長が佐和山に赴いたとあり、当時の佐和山城は浅井氏の支城でしたから、そこで両者が顔を合わせた可能性は充分にありそう。また『足利季世記』によれば、佐和山に逗留した信長のもとに、浅井父子が参上して人質を進上したと。
少なくとも出陣後の作戦途中にルートを大きく外れた小谷城まで赴く、なんていう話よりはよっぽど説得力があるんじゃないかな。
それはそうと浅井氏は六角攻め・信長上洛に従ったのかどうか? 状況的に従ったとみるのが当たり前と思われるものの、どうもハッキリしないような・・・どうなんでしょう。結局調べ切れず。

六角氏攻略戦

箕作城攻めの寄せ手に、佐久間信盛丹羽長秀とともに秀吉も名を連ねているので、ちょっとくらい城攻めのシーンがあるかと思いきや、全くのスルーでした。残念。で、「六角勢18ヶ所の城をなぎ倒し」とナレーションがありましたけど、攻防があったと伝わるのはこの箕作城攻めのみ。
六角承禎・義治父子は観音寺城を捨てて逃亡し、江南の諸氏は軒並み信長に従ったので、瞬く間に平定できたかのように見えますが、上洛を急いで支配が不安定だったため、六角氏残党に長らく苦しむことに。

上洛後も戦いは続くよ

上洛の翌々日に勝龍寺城を攻撃したのを皮切りに、摂津に攻め入って10月半ばまで三好党と戦いが続きます。
岐阜出陣から僅か1ヶ月余で畿内を平定したのは凄い。しかしほとんどは松永久秀のように誼を通じてきた者や戦わずして降った者たちであり、政権の基盤が脆弱であることはすぐに露呈するのでした。上杉謙信小田原城攻めとよく似ている。

三好党の本圀寺攻撃

阿波で再起して和泉に上陸した三好党は年明けの永禄十二年(1569)1月4日、斎藤龍興らを糾合して京都に進軍し、足利義昭の御座所になっていた本圀寺を襲撃。暗殺計画というような小規模なものでなく、援軍として駆け付けた三好義継*3細川藤孝らの軍勢と桂川河畔で合戦に及ぶほどの軍事行動でした。それにしても、三好党が和泉より京都に侵攻したのであれば、河内若江城の三好義継も勝龍寺城の細川藤孝もこれを途中で阻止出来なかったというのは不可解。どういうことなのだろうか。
一方、1月6日に急報を受けた信長は、すぐさま出陣を命じるも大雪で難渋。いまでも関ヶ原付近はよく降るようですし。結局、京都に駆け付けたのは三好党を撃退した後でした。

*1:三好三人衆のひとり・岩成友通が守っていた。

*2:三好三人衆のひとり・三好長逸が守っていたが退去。

*3:三好家の当主であったが、三好党を主導していた三好三人衆と不和になっており、松永久秀とともに足利義昭織田信長に恭順していた。