日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第25回「義仲最期」その2

余所様の感想や考察を読みまして、それを受けての追記です。
まずはドラマに関するところから。

その姿を見せたかった相手は?

義経常盤御前の感動の対面で、それなりのデキで来ながら肝心なところでズッコケさせられたあのシーン。やっぱりツッコミ入れられてる方が多いですねー。そこでこのシーンを再検証してみることにしましょう。まずは、該当シーンを私の心情入りでどうぞ。

常盤「すっかり源氏のもののふじゃな」
義経「はい!」
常盤「この姿を・・・いや(口ごもる)」
私… せやね、義朝パパが生きてたら(つД`)
義経「母上」
常盤「・・・」
義経「清盛様が生きておられたらと、そう言いかけられましたのでは?」
私… ハァ?( ゜Д゜)ポカーン
常盤「既に亡くなられていて、返って良かったのかも知れぬ(以下略)」
私… 工エエェェ(´д`)ェェエエ工

いやー、参りました。実父源義朝様完全無視ですからね。しかし、まー、義経平清盛しか眼中にないという設定ですから、それは致し方ないと諦めもつきます。むしろ問題は取り立ててそれを否定しない常盤御前にあるといえましょう。彼女が平清盛にぞっこんという描写はなかったはず。いったい常盤御前の心境はどのようなものなのか。そもそも常盤御前の人物設定はどうなっているのか。奥州出立前に源義朝形見の短刀を義経に与えたのは何だったのか。いまさら珍しくもない物語の破綻ですが、今回はグッと来るところでストンと落とされたので、さすがにきついものがある。
2005-06-27 - Mariner-S Blog』さんが「もう、この際義経は清盛の実子だった、という設定にしてしまえ。」と吐き捨てておられましたが、確かにそこまでやってくれたら完全にネタ化するし面白いと思う。ただ、でもやっぱりそれだと義朝パパが不憫すぎるッス。・゜・(ノД`)・゜・

もうひとりの子供

で、また義経常盤御前の対面シーンからですが、廊の御方(能子)の話題は出るのに全成・義円はスルーですか!というツッコミも多いですね。特に義円なんかはお亡くなりになられて・・・ふたりでしんみり思い出話のひとつでもしてもいいところなんですが。全成・義円とも仏門入りしてからはこの世に存在しないものとなってしまったようですね。
さて、ただ忘れちゃいけないのが、常盤御前にはまだ子供がいるということ。そうです、あの一条長成との間にもうけた良成(能成)クンです。ドラマだと常盤御前一条長成に対して何だかいまだによそよそしい感じがしますが、実際にはもうヨロシクやってしまってるわけですよねん。で、この良成ですが義経入京当時既に二十歳前後になっていたものとみられます。後の都落ちに際して同行するほどの間柄であった異父弟ですから、引き合わせてしかるべき場面だったのですが・・・どうやら彼も存在自体を抹殺された模様。
家族愛をテーマにしているハズなんですが、肉親の扱い(一部を除く)がヤケに冷たいんですよね。

安田義定のこと

義経とともに後白河院に拝謁していた面々の中に『吾妻鏡』の記述には見えない安田義定が入っていたことに関して、『夜盗無虫の朝寝坊』さんより『平家物語』に記述があるとのご指摘を受けました。ありがとうざいます!
平家物語』だと代わりに河越重頼が抜け、渋谷重国が渋谷重資となるようですね。ただ、諸本によってバラツキがあるようですが。
さてこの安田義定、木曽義仲とともに入京して遠江守に任官されたそーなんですが、その後義仲滅亡までどこでどーしていたのかよく分からず。『吉記』の洛中守護の記事も、その後ずっと勤めていたかどうかまでは分からない。彼を始めとする甲斐源氏はこの当時、頼朝に完全に従属していたというわけでもないので、頼朝の意向と関係なく木曽義仲と行動を供にしても不思議ではないですし、あるいは頼朝と木曽義仲とのパイプ役(監視役?)として行動していたのかもしれない。
まー、ただ実際のところよく分からない(勉強不足もあって)ので、あくまで推測に過ぎません。

合戦後の源範頼はいずこ?

合戦終了後、源範頼の出番が無かったことに対してやはり疑問の声があるようです。『吾妻鏡』には義経らと後白河院に拝謁したとありますしね。
ただ、この点については『源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― (角川選書)』に興味深い考察があります。簡単に紹介させていただくと、大手の範頼軍は義仲軍を駆逐するのみでそのまま近江に留まり、搦手の義経軍のみが上洛して後白河院を確保・警護したのではないか、ということです。
特にその根拠として、義仲の敗走ルートが京都から粟津へという、範頼軍の上洛想定ルートに対して逆走していること。つまり木曽義仲討死時点では範頼軍は上洛していない。
そして、『愚昧記』という大納言三条実房の日記の記事によれば、合戦翌日に開かれた議定の議題として頼朝軍の処置が話し合われ、入洛していない軍兵は近江に留め置くことに決したそうな。大軍*1を入京させて義仲軍の二の舞となることを防ぐことが想定され、かつこの後はすぐに平家追討に出陣するので理屈としては何の問題もない。
というわけで、源範頼はそのまま近江に留まっていた可能性が高そうです。とはいえ、範頼が少数の供回りだけ連れて入京するという可能性もありますが。

そういえば源行家はこの後

しばらく出番がなくなるんですよね。次に歴史の表舞台に登場するのは、頼朝と義経の関係が決裂してから。
で、その間何してたのかよく分からない、ってことで、なんか「源行家伊勢三郎説」というものがあるらしいんですが。(笑)
話の出所はよく分からんのですが、『源義経の生涯―源平争乱を駈けぬけた悲運の武将 (別冊歴史読本 (98))』の「源行家の謎」という記事の中で作家の江宮隆之氏が書いている。いかにも作家的想像力な感じですが、こういう胡散臭い話も何だか気になってしまう。

*1:当然ながら大手の範頼軍の方が多勢であっただろう。