日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第12回「信玄の影」

元亀二年(1571)から一気に元亀四年(1573)へ。いいぞ〜、じゃんじゃん進め。一豊が歴史上に姿を現すのがこの元亀四年・天正元年(1573)なので、ようやくこれから本番といったところ。

武田信玄の肖像画

オープニングで武田信玄についての説明があったのですが、そこで使われた肖像画があろうことか成慶院蔵の伝武田信玄像。武田信玄像であることが疑われている*1この肖像画を何故にわざわざ使うんでしょうねぇ。制作陣に肯定派がいるのだろうか。

宮部継潤と豊臣秀次

これだけ「宮部」が取り上げられることは滅多にないかも。しかし悲しいかな肝心要の宮部善祥坊(継潤)の出番はなし。その後も羽柴氏の有力な与力として、そして大名として活躍した宮部氏ですが、山内一豊との接点もあまりないので致し方ないところか。
豊臣秀次については前回の記述を参照のこと*2

足利義昭武田信玄の動向

元亀二年(1571)段階までは目立った反信長の動きが見られない足利義昭も、元亀三年(1572)になると武田信玄に信長討伐の密書を送っているものとみられ、徐々に反信長の色を強めていきます。
足利義昭追放までの一連の流れですが、ドラマでは随分と改変されているようなので、順序を追ってみることにしましょう。

  • 元亀三年(1572)
  • 元亀四年(1573)


こうしてみると、1年近くに渡っての出来事を無理矢理詰め込んだようですね。足利義昭の二回の挙兵は一回にまとめられてしまいましたし。
それに信玄の死はいちおう秘されていたので、足利義昭のもとにあのように伝えられることは無かったろうし、7月の再挙兵は情報のタイムラグがあるにしても武田軍の侵攻が止まっていること、いや武田軍が退いたことくらいは知っていたと考えるべきでしょうから、武田軍を当てにしたものではないと思われます。
それから槙島城攻めは明智光秀だけでなく、織田軍団オールスター揃い踏みの出陣であり、羽柴秀吉もそのひとり。ついでに義昭を河内若江城の三好義継*3のもとに送り届けたのは秀吉。この時期には調略がだいぶ進んでいるので、横山城から離れる余裕もあったでしょう。浅井氏は反撃する余力もなく、むしろ織田方が兵力を他に割いているお陰で、かろうじて生き延びている感じでしょうか。

*1:武田信玄像の謎/藤本正行/吉川弘文館 - 日本史日誌

*2:功名が辻 第11回「仏法の敵」 - 日本史日誌

*3:前年に、松永久秀らとともに信長に叛旗を翻していた。ちなみに松永久秀はあっさり降伏。