日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

名君保科正之と会津松平一族/別冊歴史読本

執筆陣が作家と会津関係者で占められているためか、マンセー色がやや鼻につく。ただそれに目をつぶれば、別冊歴史読本ならではの図版の豊富さもあって、保科正之を知るための入門書として充分な内容でしょう。


さて、本書で個人的興味を喚起させられたのは「媛姫毒殺事件の真相」という記事。
この事件のあらましを説明しておくと、保科正之の四女松姫が加賀前田家に嫁ぐにあたり、正之の継室お万の方(聖光院)は自分の産んだ長女媛姫が嫁した米沢上杉家より格上の大名家に嫁ぐことを妬んで、祝言前夜の内輪の宴にて松姫毒殺を図るも、松姫付きの老女がそれを察知して膳を入れ替え、それが宴席に来ていた媛姫に当たってしまい、実娘を毒殺する結果となってしまう。関係者は処刑され、お万の方は死は免じられたものの幽閉された、という悲劇的でスキャンダラスな逸話である。


この話は『会津藩家世実紀』なる会津藩の公式記録に記されたもので、一般的にこういった不祥事は正史には記されず、野史・稗史のたぐいが伝えるもの。しかしこのように公式記録に収められたのは、この事件を教訓として忘れまいとする保科正之の姿勢によるものだ、とこのように説明されることが多い。
それに対して前述の記事は、公式記録に作為がなかったか、作為があってこのような記録になったのではないか、という疑問を呈しています。つまり、本当にお万の方が事件の当事者なのかどうか、ということで興味深い。しかし記事の方は、あくまで疑問を呈して可能性を示しただけで、何ら手がかりは掴めなかった模様でがっかり。
ただ、お万の方が当事者というには少しひっかかる部分があるにはある。お万の方は媛姫死後32年、正之死後17年も生存していること。嫡子正経の生母でもあり、わざわざ松姫を殺害する必要性もないこと。また本書の別の記事によれば、正之の死後は家臣の赦免を取りなしたり、幼少の藩主正容*1に藩主の心得を優しく教え諭したりしたという。少なくとも正之の死後は幽閉されていないようだし、恐ろしい企てを図るような女性にも思えない。ま、一慨には言えませんが。


ということで、記事自体はそれほど大した内容ではなかったわけですが、そこで使われている写真がちょいと不気味なんですよね。下の画像*2がそれです。



うーん、中央の穴に人の顔が写っているように見えるんですが・・・どうでしょう。(^^;
これは米沢市の林泉寺にある媛姫のお墓。毒殺されたという人物なだけあって、いろいろと想像を掻き立ててしまいます。
しかも以前ここを訪問した際に、同行の知人が撮った写真にもやはり人の顔らしきものが写っていたそうで、その話を聞いていただけにより一層不気味な感じで。ただ私が撮った写真(下記リンク先)にはそのような気配はまるでないので、内部の石造物に当たった光の加減だろうと思うんですけどね。


綱勝正室媛姫墓(林泉寺)

*1:保科正之とお富貴の方の子。お万の方の産んだ二代藩主正経の死後に藩主を継いだ。

*2:スキャナで取り込んで、抜き取ったものですが、本では1ページぶち抜きでドーン!と掲載されていています。