日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

『義経』分析・考察サイトは何故少ない?

Snow Swallow』さんと、『2005-01-31 - Mariner-S Blog』さんと、『2005-01-31 - FANDABI三昧』さんが興味深いテーマについて語り合ってらっしゃいます。


キーワード「義経」に言及した日記をめぐると、役者そして目を引く演出を取り上げているところ、あとはちょっとした感想がほとんどですね。さすがに膨大な数の日記をめぐるのはしんどくなったので今回からやめています。(^^;

一方で、「幕末」に固定ファンがいるなら、「平安」にもその種のファンがうじゃうじゃ居そうな気がします。さてその方々は義経を解剖して頂けないのでしょうか。わくわく。…あ、もしかして、平安つーのは昔過ぎるから、意外とネットでブログ記事とか書くような若いファンは少ない?

残念ながら、幕末・新選組ファンに比べて源平・義経ファンは格段に少ないと思います。母数が少ないので、分析・考察を行うくらいのファン、というかオタクも比例して少なくなると思いますし。たぶんこれが第一の理由なんでしょう。

で、思うに義経は物語や形式ありきなんだよね。
そこがしっかりとしてるから突っ込みようもないし、武術を習おうとする義経の心情とか弁慶はどうしてそのセリフを言ったのか??なんて考えようもない。
目の前で物語が淡々と進んで行くだけだから、義経が悩んでるのも感じられないし、弁慶との対決もふぅ〜んって感じで。悩んでるのも習おうとするのも分かるけど、感じられないというか。
なんというか、、、すでに幼少時代から義経は人間義経じゃなくって悲劇のヒーロー義経なんだよね。
キャラが出来上がってるの。

2005-01-31 - FANDABI三昧』さんのこのご指摘には非常に納得させられました。
平治物語』や『平家物語』、『義経記』などの古典によって既に「義経物語」が定型化・パターン化しているのは否めません。しかもこれらは、義経の少年時代や、頼朝に追われて奥州へと落ち延びるときなど、確実な史料には見えないところにまで及んでいる。「新選組物語」にくらべて「義経物語」の自由度の無さ。今回のように「義経が清盛を父のように慕う」という新たな設定を作るというのは、ほとんど賭けのようにしか見えなくなる。既存の「義経物語」と今後どのように絡ませていくのか。


いつも私の視点は「木を見て森を見ず」な傾向なので、たまには大枠で考えるというのも勉強になります。