日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第27回「落城の母娘」

今回は新キャラが続々登場。老婆心ながら視聴者脱落が心配されるところ。これまでキープしてきた視聴率20%を切るとすればこの辺りでしょうか。

五藤吉蔵の登場

五藤吉蔵為重は五藤吉兵衛為浄の5歳下の弟で、天正十一年(1583)当時は26歳。もちろん兄吉兵衛に合わせてこちらも大幅に上の年齢に設定されています。
さて、この唐突に出てきた弟。出てくるとは知らなかったので驚きました。この唐突さをどのようにカバーするのかと見ておりましたら、どうやら長らく尾張の黒田(一宮市)に居たことになっているようです。黒田は一豊の父盛豊の旧領であり、吉蔵は一豊に付き従った吉兵衛とは異なり、その地に根を下ろした在地武士という設定なのでしょう。
ただ、それらはあくまでドラマ上であり、彼もまた兄と同じように幼い頃より一豊に仕えていたようです。ちなみに、亀山城攻めの折りは目を患って従軍できなかったとか。
彼は土佐入国後、安芸土居を預けられ1100石を知行。彼自身は代官でしたが、子孫は土居付家老となり、知行も2400石に加増されています。重んじられてはいるのですけど、どこか待遇が低いような印象を受けるのは、ドラマ史観に陥っているせいかも。

戦場は江北へ

北伊勢で滝川一益を攻撃していた秀吉に対し、柴田勝家天正十一年(1583)2月28日より出兵を開始し、自身も3月9日に北ノ庄城を出陣して3月12日には近江に入ったようです。
柴田勝家出陣の報に接した秀吉は、伊勢戦線を織田信雄蒲生氏郷らに任せ、近江へ兵を返します。ドラマでは佐和山城でのんびり待ち構えているところへ、柴田勝家出陣の報が届きましたが、それは3月3日の亀山城開城が早められてしまっているためかもしれない。しかも開城ではなく落城になってますし。さらに亀山城攻略で伊勢戦線が片づいたかのような錯覚も受ける。

賤ヶ岳の七本槍登場

福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治片桐且元平野長泰・糟野武則の7人。さらに石川兵助と桜井佐吉も彼らと同等の戦功を立てたのですが、石川は戦死、桜井も戦傷がもとで死亡したため7人に集約して喧伝された、というのはそこそこ知られた話。
まあともかく、7人もいるのでは字幕が出ないと誰が誰やら分からないゾ。
それとまた加藤清正が寧々(北政所)の親戚、という話が出てきましたが、以前にも述べたように*1大政所の縁者の誤りでしょう。
ただ、二度も主張するとなると何か根拠があるのか、気になるところです。単に原作の司馬作品を引き継いでいるだけかもしれませんが。

石田三成登場

昨年の出演者発表のニュースでも書きましたが*2中村橋之助上川隆也は『毛利元就』で親子を演じているので、やっぱりそれを思い出してしまいます。
それにしてもまだ若輩者の三成ですが、早くも存在感ありすぎ。貫禄すら漂う。その一方で七本槍はひよっこにしか見えませぬ・・・雑魚キャラ扱い決定ですか(涙)。

賤ヶ岳の戦い

天正十一年(1583)3月中旬から下旬にかけて、羽柴勢・柴田勢ともに余呉湖周辺の山地一帯に陣城を構築。長期戦の様相を呈します。特に羽柴勢は戦闘正面の北国街道を封鎖する塁壁を築いており、最初の柴田勢の攻撃を退けたところから、長篠の戦いで織田・徳川連合軍の採った戦法との類似性が指摘されています*3。すなわち防御から相手の攻勢限界に達したところを逆襲に転じて撃滅を図るという戦法で、だからこそ先に手を出すなということになるわけです。
それもこれも羽柴勢が戦力的には優勢であるためで、秀吉本人は3月末には長浜に退いており、また筒井順慶などの一部を休養のため帰国させていたりもします。そのうえ、再蜂起した岐阜城織田信孝を討つべく秀吉は4月16日に大垣城に入城。
で、それによって引きずり出されたかたちとなった柴田勢ですが、それは結果論であり、羽柴勢の兵力が落ちたあの時点には柴田勢にも充分に勝機があったと考えられます。従来は佐久間盛政の暴走が敗因であったとされ、今回もそれに沿った展開(至極あっさりしていましたが)でしたが、側面を突いた佐久間盛政の攻撃に合わせて、柴田勝家が戦闘正面を突破できれば、秀吉の帰還前に羽柴勢を追い落とせたでしょう。そしてまた正面突破の可能性も充分あったと思うのですが、柴田勝家は何故か本陣を前進させたものの、攻撃せぬまま徒に時間を過ごしてしまいました。それほどまでに守りに隙がなかったのか、とにかく戦機は逸してしまい、秀吉の帰還した羽柴勢の逆襲を受けます。
ただ、佐久間盛政の撤退は速やかに行われ、上手くいけば元の戦線に戻れる可能性があったとも言われます。が、ここで柴田勝家に見切りを付けた前田利家が戦場より無断撤退したことにより、柴田勢は総崩れ。前田利家の敗退行為は『利家とまつ』でも有耶無耶にされたような記憶があるのですが、今回もスルー。って、そもそも利家は登場していないので仕方ないところか。


賤ヶ岳から余呉湖
賤ヶ岳古戦場碑
賤ヶ岳山頂一武将の像

一豊と賤ヶ岳の戦い

相変わらず大したことは分からず、不明なことばかりです。
『秀吉事記』『甫庵太閤記』『賤ヶ嶽合戦記』『柴田退治記』などの軍記物には、3月の出陣の際の陣立が記されていて、一豊は五番隊に組み込まれていますが、それ以上のことは不明。
秀吉の大垣出動に従ったという話もありますが、残念ながら根拠不明。とりあえず大した軍功がなかったことだけは疑いないでしょう。

佐久間盛政磔刑

北ノ庄城から見える場所で磔にした、とさらっと説明がありましたが、これは誤りで、『兼見卿記』などによれば京都に護送されて市中引き回しのうえ、槇島で斬られ、首級は六条河原に晒されたとのことです。

北ノ庄落城

賤ヶ岳の戦いから2日後の天正十一年(1583)4月23日、逃げる柴田勢を追撃する羽柴勢は早くも北の庄城を包囲。翌日には総攻撃を掛け、柴田勝家お市の方、そして柴田一族は天守に籠もって最後の抵抗を見せた後、ことごとく相果てたと。
北ノ庄城は後に結城秀康の大改修によって本丸が北へ移り、さらに後には福井城と改められました。柴田時代の北ノ庄城本丸は現在の柴田神社のあたりとみられます。


柴田勝家像(柴田神社)
お市の方像(柴田神社)

茶々がおっきくなる

野口真緒ちゃんから永作博美に変身。おしとやかなお姫様から強気でヒステリック気味なお姫様への変身。母が死を選んだことが影響しているのでしょうか。(^^;
思えば、清洲会議後にお市の方が北ノ庄入りした際の出演は野口真緒ちゃんだったわけで、この時点から北ノ庄落城までは1年にも満たない。つまり短期間での大きな変貌は、それだけ彼女の心身に与えた影響の大きさを表現しているのではなかろうか。考えすぎだろうか。

山内家臣団はどうした?

口やかましかった五藤吉兵衛がいなくなり、めっきり淋しくなった山内家臣団。
一豊の側には祖父江父子しかいなくなってしまいましたが、これから長浜・掛川と身代が大きくなるにつれて家臣も増えるので、名のある家臣役の登場人物も増員されることでしょう。今後に期待です。五藤吉蔵もまさか今回限りということはないでしょうし。
今回気になったのは、いわゆるその他大勢が見当たらないこと。先週までは居たはずですが、彼らは一体どこへ行ったのやら。
戦場でひとり突撃する一豊は彼らに見放されてしまったのか、はたまた彼らを置いてけぼりにしてしまったのか。どちらにせよ指揮官としては失格。そりゃ出世競争から脱落もしますわ(笑)。
ちなみに当時の一豊は二千〜三千石を知行していたとみられ、動員兵力は数十〜百人ほどでしょう。