風林火山 第10回「晴信謀反」
先週放送分です。
今更になって、前島一門粛正の際の奉行衆退去が飯富虎昌の口から語られましたけど、これって去年何度も興ざめさせられた「話は遡るが」と同じ手法ですよね。無理矢理に後から説明を入れられても御都合主義が鼻につくだけなんで、リアルタイム(?)にきちんと話を入れ込んでおくか*1、もうガン無視を決め込むか、どちらかにしていただきたい。
信濃出兵と信虎追放の関連性
天文十年(1541)5月に信濃国小県郡への出兵(海野平の戦いなど)があり、帰国直後の6月に武田信虎追放事件が起こることから、両者の関連性については当然これまでも論じられてきたことですが、これまでは「軍役負担により国内が疲弊して不満が募った」というような見解が一般的であったと思います。しかし、信虎追放後も武田晴信によって拡大路線は引き継がれているわけですから、如何せん不十分と言わざるをえません。
とはいえ、納得のいく新たな見解もなかなか見当たらず、悶々としていたのですが、一筋の光明となりそうな記事に出会いました。
では、この時期の出陣がなぜ家臣の反発を招いたのか。実はこの信虎の信濃出兵は、連年にわたってほぼ同じコースをたどって実施されています。これが問題だったのです。軍勢の糧食は現地調達に依存しますが、同じコースを何度も通過すれば、コース上の郷村は疲弊し、現地調達が困難になります。長陣が嫌われるのも同じ理由で、同一箇所での現地調達が時間の経過とともに困難の度を増すことにあります。つまり、連続した侵攻で疲弊した地域を通路に急激な作戦を強行し、結果的に家臣たちが軍事作戦に期待する旨みを低下させてしまったことこそが、信虎の失敗だったわけです。
豊泉堂雑記 | 『風林火山』第10回
つまり、大勝利とされる小県出兵でしたが、戦果が乏しかったために反発を招いたと。こういうことでしょうか。日露戦争後の日比谷焼き討ち事件と同質という捉え方もできそう。こういう視点はなかったので、興味深いです。
ただ、いくつか疑問も湧いてきます。「連年にわたって」同じコースで信濃出兵したとありますが、確認できるのは前年の天文九年からでは無かったか。また、侵攻路である佐久が疲弊していたとして、信虎は何故そのルートを採ったのか。初侵攻の小県郡ではペイできなかったのか。
いずれまとめて記事にされるそうなので期待して待ちたいと思います。
*1:映像が難しくともナレーションくらいなら容易に対応できるだろう。