日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

風林火山 第6回「仕官への道」

先週放送分です。鮮度が褪せちゃうと言及意欲も減退するね。

福島越前守は何処へ

そもそも駿府から久能山へ引いた後の動静は不明ということだから、花倉の玄広恵探と合流出来たのだろうか?とか、合流出来ていないとすると誰が玄広恵探を支えていたのだろうか?とか色々と謎。

前島一門の粛正

記録にあるのは腹を切らされたというから、夜襲は創作だろう。今年は殺陣が多いっすね。去年少なすぎた反動?
それにしても、福島氏に一度は肩入れしながら反故にしたたという架空の設定が、ここで武田信虎の非道性をアピールする役割を果たしている。気に入らない(○`ε´○)

奉行衆の国外退去

前島粛正に際して、信玄が諫止、じゃなくて奉行衆が悉く他国へ去ってしまったという。今川氏との和議という信虎の外交政策に反発したものとみられる。
信虎の専制化の現れなのだろうが、奉行衆とは大名権力の支持基盤ではないのだろうか。大名権力を掣肘する性格を持つ家老衆ならば話は分かる。しかしその奉行衆が退去するとなると尋常な事態ではない。専制化が進む一方で、孤立化・空洞化が進行し、5年後のクーデターを惹起することになったのではないだろうか。
奉行衆はどんな面々で、どんな権限を持っていたのか。それとついでに、どこを頼ったのかも気になるところ。

小山田信有

が何故か目立ってる。雪斎との取次役を務めたり、前島氏を襲撃したり。どちらも根拠のある話ではなさそうだ。
つまり、なんらかの演出的意図があってのことだと思われるが、それが何だかはよく分からない。とにかく今後の彼の扱いは注目だ。

信玄と三条夫人の婚儀

天文五年(1536)7月とするのは『甲陽軍鑑』によるもの。それに拠れば、同年3月の元服に際して勅命をもって婚儀が決まり、7月に輿入れしたという。
勅命というのは如何にも大袈裟。やはり今川家、特に寿桂尼の斡旋という可能性が高いのではなかろうか。しかし、そうなると7月という時期は大いに疑問。いくらなんでも早過ぎる。
それに武田・今川の同盟が天文五年(1536)段階で成立していたとも考えがたい。両者の同盟に後北条氏が怒って駿河に出兵(河東一乱)したのは、翌年2月に今川義元武田信虎の娘を娶ってからのこと。同盟成立以前に婚儀を斡旋というのも不自然ではなかろうか。まあ、ドラマでは花倉の乱で密約があったことになっていて、話の整合性は取れていますけど。

後北条氏の家臣

清水吉政、松田七郎左衛門、本間江州。誰?

北条綱成の出自

俗説にいう福島正成の子、というのを福島越前守の子にアレンジしたものだろう。しかし、後北条氏は花倉の乱で今川義元を全面的に支持し、援軍を出し、あまつさえ花倉攻めの主力であったともみられている。そんなところに残党が逃げ込むだろうか?
そもそも福島正成は実在が疑われている人物。そうなると北条綱成はいったいどこから来たのか?ってことになるのだが、勉強不足もあって、これがどうもよく分からない。うーん。