北条氏秀と上杉景虎/長塚孝/戦国史研究(12号)
1986年、20年前に発表された2ページの小論。昨年末チェックしていたものを*1、遅ればせながら読み終えました。
北条氏秀と上杉景虎が全くの別人であるとする論考で、その根拠として挙げられている史料は『北条家過去帳』。
これによって、江戸にいた北条治(部)少輔の実名が氏秀であり、天正十一年(1583)に死去したことが分かる。またこの北条治部少輔については、北条氏直書状によって天正八年以降に関宿城に在番、のちに病気療養のため江戸城へ移ったことが分かっているという。
一方、上杉景虎ですが、彼は天正七年(1579)に御館の乱で自害しているので、上記の北条氏秀と同一人物の可能性は皆無。また、上杉景虎の北条氏時代の実名を「氏秀」とするのは軍記物の『関八州古戦録』にみえるのみのようで、それより成立時期の早い『北条五代記』では実名について触れていないとのこと。どうやら『関八州古戦録』に依拠するところが大きかっために、上杉景虎の前名を北条氏秀とするのが広まってしまったようです。