日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第11回「仏法の敵」

横山城在番

小谷城の南方、東山道・北国街道・北国脇往還のトライアングルの真ん中に位置する横山城
姉川の戦いは、この横山城を包囲する織田軍に対して朝倉氏の援軍を得た浅井氏が後詰めに出撃したことから起こった遭遇戦。織田軍は小谷城下まで追撃するものの、さすがに要害堅固な小谷城の攻略までは無理とみて、再び横山城攻略に戻り、援軍の望みが断たれた横山城はすぐに開城。
城番として秀吉が入れられ、木下勢は姉川の戦いからすぐに横山城に詰めることとなって、岐阜には戻らなかったものと思われます。
それと、一豊が「御館様の兵とともに一気に小谷を攻め落とした方が早いのではありますまいか」などと言っておりましたが、それが出来なかったから、こうして横山城で浅井氏を牽制しているわけなんですけど、溺れていたからっていくらなんでも状況に疎すぎじゃまいか(苦笑)。


横山城跡
小谷城遠景

豊臣秀次

幼名・治兵衛(じへえ)。時代考証小和田哲男氏は『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)』で、秀次が生まれた段階で幼名がつけられるほどの階層だったと思えない、と疑問を呈しています。というか、そもそも幼名に「治兵衛」ってのはどうなんですかね。幼名にはあんまり相応しくないというか何というか。
秀次は永禄十一年(1568)生まれ、ということで、元亀元年(1570)の彼は数え年で3歳。満年齢でいえば1歳か2歳。今回の子役はちょっと大きすぎますね。
元亀二年(1571)に織田氏へと寝返った浅井氏被官の地侍宮部継潤の養子となりましたが、人質としての意味合いが強かったものと思われ、その後いつの間にか羽柴家に戻った後、次は三好康長の養子となります。
山内一豊は、後に秀次付きの宿老のひとりとなるので、秀次(治兵衛)クンの出番は今後もかなり期待できるものと思われます。ただ、一豊夫妻のエピソードがそもそも足りないので、今回のように秀次に手習いや鎗を教えたりする作り話がかなり盛り込まれるのでしょうけど。

野田・福島の戦いと志賀の陣

姉川の戦いから2ヶ月後の元亀元年(1570)8月20日、阿波から摂津に上陸して攻勢をとる三好党を討つべく信長は岐阜を出陣。8月26日には天王寺に着陣して三好党の籠もる野田・福島を攻撃。足利義昭も出陣して、信長とともに前線にまで出張っている。そして優勢に戦いを進める中の9月13日、織田軍の背後で石山本願寺が挙兵。信長は一転してピンチに。ピンチとなったのは足利義昭も同じこと。自らを窮地に追い込むために信長包囲網を形成しようとするだろうか? この時点における信長包囲網に義昭が絡んでいたとするには問題があると私は思います。
さて、ピンチは摂津戦線だけでなく近江戦線にも起こっていました。浅井朝倉連合軍が近江を南下、9月19日には宇佐山城将織田信治*1森可成*2らを討ち取っている。坂本近くの宇佐山城は持ちこたえたものの、浅井朝倉方は9月20日に大津を、さらに9月21日には醍醐・山科を焼き払っている。姉川の戦いから僅か3ヵ月後のこの積極的な軍事行動から、姉川の戦いでの損害が存外大したことはなかったのであろう、と推測されています。
9月22日に知らせを受けた信長は翌日京都に戻り、24日には近江に進出。比叡山へと登った浅井朝倉方と対陣。ここで延暦寺に対して、せめて中立してくれないかと申し入れるも、見事にスルーされたことが翌年の比叡山焼き討ちに繋がったことは有名な話。
両軍の睨み合いは三ヶ月続き、その間に江南で六角承禎が挙兵、さらに伊勢長島一向一揆織田信興*3の小木江城に攻め寄せて自害に追い込んでいる。また両軍睨み合いの中で唯一の戦いが堅田であり、織田家重臣の坂井政尚が討死。
このように、一連の流れを略述するだけでも結構な分量になってしまうくらいどこも苦戦続きでした。しかし、なんとか戦線を維持しつづけられたことが、最終的に信長が窮地を脱することに繋がった。12月13日に講和が成立し、12月17日に岐阜に帰還したのでした。講和をどちらが先に持ち出したのか、などということは些細な問題でしょう。どちらも手詰まりであり、どちらも講和を受け入れたということそのものが重要かと。
ところで、横山城に在番していた木下勢ですが、『信長公記』によれば丹羽長秀とともに江南を通って信長のもとに赴いたという。抑えるべき浅井氏の兵は比叡山・坂本に滞陣しているのですから、横山城に詰めている必要性は低くなり、志賀出陣はあり得べきこと。

比叡山焼き討ち

一気に飛んで、元亀二年(1571)9月12日。織田軍は比叡山に攻め上り、山上の堂舎を焼き、山下の坂本は撫で斬りが行われました。
山上はそれほど焼けなかったとも言いますが、どうなんでしょうね。
それと秀吉がこの合戦に加わっていたかどうかについては疑問があります。『信長公記』の当該記事に名前がないこともあるが、何より横山城在番という任務が彼にはある。志賀の陣では坂本に出陣していた浅井氏も今回は動きが見られず、小谷城の浅井氏を抑えねばならない横山城から兵力を割く可能性は低いでしょう。

織田信長明智光秀

比叡山焼き討ちをめぐる遣り取り。いかにも古臭い。古典的。ステレオタイプ。
それもそのはず。30年以上も昔の大河ドラマ国盗り物語』そのままのシーンだったようです。


大河「功名が辻」を見て驚いた: 歴史と地理な日々(新版)


両者を価値観の異なる人物として描き、かつ信長に光秀を折檻させることによって、本能寺の変への動機として繋がる仕組みは、視聴者にとって非常に分かりやすい展開。分かりやすい、だからこそ流布してきたわけですが、その根拠となるのは後世の軍記物等で信憑性に欠ける。
そもそも史学的な見地云々以前に、いくら原作が司馬作品だからって、司馬作品に依存しすぎてやしませんか?

*1:信長の弟。

*2:織田家重臣。森長可森蘭丸らの父。

*3:信長の弟