日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

山内一豊のすべて/小和田哲男 編/新人物往来社

山内一豊のすべて

山内一豊のすべて

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  • 関ケ原の戦いで一豊はどう動いたか …下山治久
  • 山内一豊の妻「近江若宮氏説」 …太田浩司
  • 山内一豊の妻「美濃遠藤氏説」 …岩崎義郎
  • 名馬購入譚の虚実 …大嶌聖子
  • 土佐への転封とその治世 …平野明夫


いろいろ分かってくると楽しくなってきますね。来年の『功名が辻』が早くも楽しみになってまいりました!

「千代」の名は同時代史料に見えない

一豊の妻の現存する書状は、一豊死後の晩年のもののみで、出家後の法号「見性院」という自署しか見えないという。
じゃあ「千代」というのは一体どこから? 小説やドラマなどで、実名の分からない女性に対してそれらしい名前を付けることがありますが、「千代」も由来はそこにあるのかも、などと思ってしまいましたがどうやらそうではないらしい。
土佐藩の帳簿に「千代」という名が見えるので、それを一豊の妻の実名に比定したらしいのだが、これがどうも山内忠義の生母にあたる女性の実名らしく、混同したのだろうとされている。一豊の妻山内忠義の義母にあたるので、その可能性は高いのではないだろうか。そうなると実名はいまのところ不明ということか。

一豊の妻・近江出身説

浅井長政に遺領を安堵された「まつ」ですが、その父親は若宮喜助じゃなくて若宮左馬助なのか。混同している史料もあるようだけどね。近江出身説ではこの両者を別人としていますが、それだけでは何とも。
それから、「まつ」が山内家重臣の五藤為重の妻となったこと、近隣から山内家の家臣が多数出ていることなどを挙げ、それをもって近江出身説を補強する、としているが根本的な解決にはなっていない。近江出身説の限界を表しているようにも思う。

一豊の妻・美濃出身説

かといって美濃出身説も決め手を欠きますなぁ。史料といえば遠藤氏関係および郡上八幡関係に限られるうえに、『寛政重修諸家譜』より古い『寛永諸家系図伝』には遠藤盛数の娘に関する記述が見えないそうですし。
山内家と美濃の諸氏との婚姻関係や、山内家と古今和歌集との関わりなどは美濃出身説の補強にはなっても、根幹たり得ませんものね。

一豊の姉・通姫の旦那は安藤守就の弟

安東郷氏という方だそうですが、「安藤」じゃなく「安東」と表記されていたから全然気が付かなかったよ。

名馬購入譚

この逸話の源流とみられる新井白石の『藩翰譜』でも、「ホントか?」と疑問を呈しているんだそうです。不確かな噂レベルの話といったところか。
山内家の伝記類には全く見えない逸話なので、山内家の外部で作られた話であろうという。根拠のない話とはいえ、山内一豊夫妻がどのように見られていたのかを示すエピソードと考えることは出来そうですね。

浦戸一揆は長宗我部氏の重臣層が鎮圧

一揆に参加したのは土地に密着していた一領具足と呼ばれる中下級武士たちで、重臣層は再仕官の可能性があることからこれに参加しなかったと。接収のために派遣された井伊直政の家臣が到着してから接収完了まで、何だかんだで半月あまりで片づいているのでさほど大事にはならなかったのかもしれない。
先乗り派遣された山内康豊らは、浦戸城接収は井伊直政の家臣に任せ、西部に上陸して入国の地ならしを行っていた様子で、浦戸城の受け取りは接収から6日後ということです。

桂浜の反対勢力を騙し討ち

山内家の汚点はこちらか。桂浜での相撲興行にかこつけて、集まった反対勢力の一領具足73人を磔にしたということです。
2年後には本山一揆が起きるなど、入国後しばらくは不穏な情勢が続いたようですなぁ。

与えられた石高は?

慶長十年(1605)に山内一豊が幕府に提出した文書に記していらい、土佐藩は一貫して20万2千6百石を表高としていたのですが、一豊が最初に拝領したときの石高は9万8千石ではないかと言われています。
そもそも旧領主・長宗我部氏の石高が9万8千石とされるのですが、これは軍役高のみで、軍役賦課の要らない無高の土地を含まない数字ではなかったか。記憶が朧気なので、洗い直してみる必要がある。