義経 第38回「遠き鎌倉」
景季タンとの仲良し設定もこれまで
今まで数々の思わせぶりな設定がありましたが、それらを伏線として使用することなくそのまま打ち捨ててきた過去を思えば、義経と梶原景季の仲良し設定も結局そのまま投げっぱなしで終わる可能性が高そうですね。単に腐女子向けとかそういうことだったんでしょうか。
源行家再登場
木曽義仲滅亡後、しばらく歴史の表舞台に姿が見えないことは以前*2言及しましたとおり。こういう空白期があることが彼の胡散臭さの要因のひとつになっているのかもしれない。
で、彼の再登場ですがちょっと早いかと。謀反が発覚し、佐々木定綱に追討の命が出たという『吾妻鏡』元暦二年(1185)8月4日条の記事が再登場の初出じゃないかな。頼朝と義経の対立を描き出さんがための演出上のフライング措置、ってところでしょうか。
大姫タンも再登場
「九郎の叔父上に会いたい・・・。」
野口真緒ちゃん、カワイソス・・・。ってか、こんな話のダシとしての使われ方はないだろ。
義経、平宗盛・清宗父子を相具して下向
後白河院に願い出ての任務になっていましたが、この下向には一条能保*3も同道しているので、頼朝の命があったものと考えるのが妥当だと思いますが。まー、義経が勝手に付いて来ちゃったという可能性もあるかもしれないけど、それはいくら何でもという気がする。
自由任官御家人ブラックリストの評価は先走り過ぎてやしないか
今回もまた、あれに義経の名前が入っていないから云々とされていました。
そもそも大河ドラマに限らず、このリストの評価とか位置づけとかいうものが、どうにも過剰という気がしてならない。確かに刺激的な内容であるけれども、あれがどれほどの実効を伴ったのかは定かではない。その後が不明な人もいるけど、何事もなかったかのように頼朝に仕えている人が多いし。彼らは辞官したうえで頼朝に詫びを入れたのだろうか。佐藤忠信はどうしたんだろう。分かっているのは渋谷重助(重資)ただひとりが任官の召名を止められている*4ということくらい。
もう少しじっくり吟味する必要があるように思うが、この件について言及している論文・書籍はないだろうか。
平重衡も再登場
なんか、頼朝の庇護により伊豆にいることになってますが・・・何が元ネタ?
『吾妻鏡』元暦二年(1185)6月9日条に「重衡卿、去年より狩野の介宗茂の許に在り」とあるのがそうだろうか。しかし、狩野介所領の伊豆ではなく、狩野介の屋敷が鎌倉にあって、そこに居たと考えるのが妥当ではなかろうか。進発しているのも鎌倉からのようだし。
そこに平頼盛が?!
あれ? 前年の元暦元年(1184)6月1日に帰洛の宴を開いてもらい、6月5日には出発しているハズですが・・・また関東に下向してきたんですか?(^^;
で、平重衡に対して興福寺に参るように仕向ける損な役回り。というか、叔父を思いやる高潔な平重衡に対して情けない小人物として描かれていて、なんともやるせない。
ちなみに、平頼盛は元暦二年(1185)5月29日に東大寺で出家しています*5。平重衡より先に奈良に着いていることになるぞ(笑)。
義経・平宗盛と平重衡再会
義経らが相模酒匂宿に到着したのは元暦二年(1185)5月15日で、平重衡が南都へ進発したのは翌月の6月9日。というわけで、このあたりがかなり脚色されていることは明らか。平重衡進発は1ヶ月前倒しになっているのね。
そもそも伊豆から南都に向かっているという設定の平重衡が何故相模に居るのだろう? 一旦、鎌倉に戻って頼朝に挨拶でもしたとでも考えればいいのだろうか。毎度のことながら視聴者が脳内補完しなければならないような展開は勘弁して欲しいものです。それと脚色するのは構わないですが、それによって出た齟齬はキチンと整理して欲しいですよね。まー、いまさらなんですけれど。
あとちなみに『吾妻鏡』元暦二年(1185)6月9日条だと、平重衡進発だけでなく、早くも帰洛する義経が酒匂宿に逗留したという記事があるので、混ぜ合わせたという可能性もありそう。
伊豆頼兼って?
源頼政の子・源頼兼のことかな? 『吾妻鏡』では彼が平重衡護送役を務めているし。
でもなんで「伊豆」?
甥の源有綱は、父仲綱が伊豆守だったからこそ、伊豆冠者有綱と称されるわけだけど。頼兼も伊豆と何らかの関わりがあるのだろうか。
そして腰越
次回へ続く〜。