日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第25回「義仲最期」

今回は勢多・宇治の戦いがメインってことで、『源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― (角川選書)』を片手に鑑賞。

搦め手義経軍のルート

軍議のシーンで、大和から宇治へというルートを説明していましたが、いささか遠回り過ぎる。ドラマでも既に近江に進出しているという設定なのだから、勢多の手前で分かれて宇治川沿いの田原路を進んで宇治に出るルートが最も妥当かと。

木曽義仲の動向。

鎌倉方の上洛を前にして木曽義仲の採った戦略は、ドラマでも前回口にしていた平家との和睦、そして後白河院を伴っての北国下向の2つであったとみられます。
以下に『玉葉』の寿永三年(1184)1月の伝聞記事の概要を並べましたが、迷走具合がよくわかる。結局どちらの策も取れぬまま身を滅ぼしたわけですが、もしせめて後白河院を奉じた北国下向が成っていたら・・・情勢は混迷を極めたでしょうなー。

  • 1月9日 平氏と和平
  • 1月10日 後白河院を奉じて北国下向が決定
  • 1月11日 下向停止、13日に入京する平氏後白河院を預けて近江下向が決定
  • 1月12日 平氏との和睦難航
  • 1月13日 鎌倉方が千騎余と聞いて下向延引、平氏との和睦難航
  • 1月14日 16日に後白河院を奉じて近江下向
  • 1月15日 征東大将軍の宣旨(『吾妻鏡』では10日に征夷大将軍
  • 1月16日 鎌倉方が数万の大軍とようやく知る

樋口兼光

ドラマでは源行家討伐に向かって結局その後どうなったのか触れてもらえなかった樋口兼光。
吾妻鏡』によれば、源行家ではなく河内の石川氏討伐に向かうも、石川氏が逃げ去っていたため京に戻ってきたところ、合戦の翌日に主君滅亡を聞いて義経勢に戦いを挑んで捕らえられ、2月2日に梟首されたそーです。

宇治川の戦い

寿永三年(1184)1月20日。
平家物語』の有名なエピソード群は軒並みカットかい。まー、佐々木高綱も畠山重忠も出てこないんだからしょうがないよね、と思ったのですが・・・。

六條殿に馳せ参じた面々

義経とともに拝謁していたのは河越太郎重頼・安田三郎義定・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季でした。こんなところで佐々木高綱・畠山重忠を出すなよー! なんなんですか、意味が分かりません。
それはともかく、『吾妻鏡』の記述に基づく面々のようですが、こちらには安田義定の名がない。真実一路の出番を増やすための処置でしょうか?

巴御前との別れ、木曽義仲の最期

泣けるシーン、なのかな? 物語として悲劇があまり見えてこないような気がしたのですが、どうなんでしょう。あまり感情移入できぬままでした。

変わり身の源行家

和泉に居たはずですが、えらく早い上洛ですね。『玉葉』によれば後白河院のお召しで2月3日に上洛し、頼朝の勘気も解けたそうな。