日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第16回「試練の時」その2


ええと、遅くなりましたが後半鎌倉編です。


話は、亀の前の一件と、頼朝が義経に馬を引かせた一件の大きくふたつ。前者は寿永元年(1182)11月10日の、後者は養和元年(1181)7月20日の出来事。どういう意図か分からないが年代が逆転している。また、今後の放送でもこれ以前の出来事がありそうだ。


亀の前の一件ですが、『吾妻鏡』によれば、彼女が身を寄せていた伏見広綱の屋敷を、牧の方の密告*1を受けた北条政子が牧宗親に命じて破却し、亀の前は三浦一族の大多和義久の屋敷に逃れたという。
その後も話が続いていて、頼朝は牧宗親を処罰するのですが、この牧宗親が牧の方の父、すなわち北条時政の岳父ということで、面子を潰された北条時政は伊豆に引き籠もってしまったそうな。北条時政がいつ鎌倉に戻ってきたのかはよく分からない。
で、亀の前は北条政子を恐れて伊豆に帰ったか、というとそうではないらしく、翌月には小中太光家の屋敷に移り、頼朝の寵愛はますます深まったそうな。ただ、その後どうなったのか気になりはします。
悲惨なのは伏見広綱で、北条政子のお怒りがひどくて遠江国に追いやられてしまいました。


この伏見広綱ってのが、どうも源広綱らしい、という話があるのですが、いまひとつ腑に落ちない。源広綱源頼政の孫で、頼朝の庇護を受け、駿河守に任じられるなど御門葉(一族)の待遇を受けていた人。でもその待遇でも不満だったのか、頼朝が上洛した折りに勝手に遁世しちゃった人。その源広綱が、頼朝の愛人を匿わせられていた上にこんな仕打ちを受けていたなんて・・・このときは我慢したけど、ということなのだろうか?うーん。
ちなみに牧宗親は、牧の方の父というだけではなく、あの池禅尼の弟とみられています。


ふたつの話の間に、ようやく出来上がった大蔵御所への頼朝の移徙が差し挟まれていました。治承四年(1180)12月12日のことです。梶原景時・景季父子が登場していましたが、『夜盗虫の朝寝坊』さんが言及されているように梶原景時が初めて参上したのは翌月のこと。ちなみに親父が「平三*2」で息子が「源太」の謎については、私も以前から疑問に思っているのですが、相変わらず謎のままです。梶原氏は平姓なので、「平三」は分かるのですが、どのような経緯・理由で「源太」になったのやら。
話は変わって、「梶原源太」繋がりで思い出したのですが、戦国武将太田三楽斎の次男も梶原源太(政景)でした。詳しい事情は分かりませんが、名跡とか継いでいるのかもしれない。


鶴岡八幡宮若宮宝殿の上棟式で、大工に与える馬を引く役を頼朝より命じられた義経。『吾妻鏡』ではだだをこねますが、流石はタッキー、ここは素直に兄の命令に服します。しかしあまりに素直すぎて波風が立たないんですけど・・・この調子だと梶原景時とも上手くやってしまいそうな勢い。今回も初対面の挨拶を無事こなしていましたし。
さて、同役として『吾妻鏡』に名が上がっているのは、畠山重忠・佐貫広綱*3土肥実平・工藤景光・新田忠常・佐野忠家・宇佐美実政。なかなかの顔ぶれだ。
手勢も少なく所領も持たぬ義経は、まだ一門としての待遇ではなかったかもしれませんが、有力御家人並みの扱いは受けていたということになるのではないでしょうか。
ところで、ドラマでは同役として天野遠景・土肥実平・二宮友平が呼ばれていましたが、天野と二宮は一体どういう人選なのでしょう。だいたい、二宮が土肥実平の弟だなんて知りませんよ。なんで畠山を出さないのだ!「えーーいっ!二宮はいいっ!!畠山を出せっ!畠山をっ!!」と思わずテレビにかじりついてしまいそうになるのを懸命に抑えました。我が郷土の武蔵武士の登場はあるのでしょうか。さすがに義経の舅河越重頼くらいは出てくるんじゃないかとは思うのですが・・・あとは熊谷直実くらいか。


しかしなんですな、佐々木高綱も畠山重忠も出ないとなると宇治川の戦いは淋しいものになるような気が。先陣争いはどうなるのだろう。もしかすると、タッキーが梶原景季を出し抜くなんていう奇天烈な展開になったりしてね。_(^^;)ツ アハハ

*1:ドラマでも何故だかここはこの通りに描かれていましたね。

*2:ドラマでは「へいざ」としていましたが、普通「へいぞう」ではないのだろうか?

*3:藤姓足利氏なので源広綱とは無関係。