日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第8回「決別」

今回もまだ承安元年(1171)。


前回謎を残した殿下乗合事件もどき*1ですが、平重盛が郎従を引きつれて「三位殿」の邸宅に押し入り、烏帽子を取り返して事件は集結。「三位殿」は分からずじまいだし、視聴者への説明も充分とは言い難い。一門の権威を守るために嫡男として毅然とした態度を取る平重盛と、無用の争いを避けたい平宗盛と、兄弟の立場の違いを示したいがために挟み込んだエピソードなのだろう。


結局のところ、この承安元年(1171)にあらゆるエピソードを詰め込むためにこういう形をとったのではないだろうか。殿下乗合事件もどき以外の主なものを列挙してみよう。


最後は史実にも伝説にもない創作話ゆえ除くとして、この中で承安元年(1171)にあったこととして確実なのは徳子入内のみ。そもそも五条大橋の対決も、『義経記』などにはあっても確実な史料には見えないか。
頼朝と政子の出会いにしたって、いつなのかはハッキリしないし、結婚云々が取り沙汰されるのはもっと遅いのではないか。
義経の奥州下りもハッキリしたことは分からないし、とまあそんな曖昧なエピソードをごっそり承安元年(1171)に持ってきたのは何故だろう。


まず思うに、徳子入内という平家の権勢の画期ともなった出来事に、義経・頼朝らの話を付け足すことによって、繁栄する平氏と雌伏のときを過ごす源氏という対比を印象づけるためではないか。
もうひとつ、色々エピソードを盛り込みたいという演出上の問題があるのかもしれない。それぞれ単発のエピソードとして見せるよりも、関わり合いのあるエピソードとして見せたほうが視聴者を飽きさせない。あまりやりすぎると理解できなくなった視聴者に拒否反応を起こされるけど。ま、これはこれで上手い手法かもしれない、と思った。どうせハッキリしたことは分からんエピソードなのだし。
あー、でもやっぱり殿下乗合事件もどきは蛇足だったんじゃないかなー。