堀越公方府滅亡の再検討/家永遵嗣/戦国史研究(27号)
伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆乱入の時期と、乱入後も足利茶々丸は直ちに討ち果たされることなくその活動が続いていたことを明らかにし、堀越公方府体制の分裂について論じた1994年の論文。
この十年ほどの間で早雲研究が大きく進む端緒となった、という評価*1を受けています。
ところで、堀越公方のことが『勝山記』において「北条ノ御所」「北条ノ君」*2と表記されいる点は興味深いですね。
周知のように堀越公方を滅ぼした伊勢宗瑞に始まるのが後北条氏。北条改称は相模国主の正統性を唱えるため執権北条氏の名跡を継承したのだ、というように捉えられていますけど、もしかすると堀越公方の名跡継承も含んでいたのではないか。
なんて、ちょっと考えすぎでしょうか(^^; 北条改称が為されたのは伊勢宗瑞のときではなく氏綱の代になってからですから、今更感が漂いますしね。