日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

源義経/元木泰雄/吉川弘文館

源義経 (歴史文化ライブラリー)

源義経 (歴史文化ライブラリー)

一昨年、『義経』が熱かったあの頃を思い起こさせてくれる一冊。何しろ参考文献には当時刊行された主な関連書籍が名を連ねていますし、本文でも盛んに言及しています。まさに近年の義経研究の総決算といった趣があります。
興味深い箇所・気になる箇所が多いので、少しずつ書き留めていくとしましょう。

木曽義仲と将軍位

木曽義仲が就任したのは征夷大将軍(『吾妻鏡』)か、征東大将軍(『玉葉』)か。
近年の研究では、征東大将軍であったことが確認されているそうだ。追討の対象が蝦夷ではなく東国の頼朝なのだから当然、という意見は確かにごもっとも。なんですけど、どのような論証がなされたのか、『三槐荒涼抜書要*1』の記事に拠るということ以外、詳しくは触れていないので気になって仕方ない。まあ当該論文は参考文献に挙げられているので、そのうち確認したいと思う。そのうち・・・ね。


→櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって−『三槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介」(『明月記研究』9号)


さらには、この研究で頼朝が征夷大将軍に固執していなかったことも明らかになったという。興味深い。これによって頼朝段階における『吾妻鏡』の信憑性に問題があることが明らかとなれば、腰越状など義経関連記事の疑義への補強にもなりそう。期待大。

木曽義仲追討戦

源範頼は鎌倉から大軍を率いて出陣し、先行していた義経と合流した。
このような解釈が一般的ですが、そうとは考えがたいという。一ノ谷に向けて出陣した軍勢が「二三千騎」(『玉葉』)であったこと。直前に上総介広常の粛正があり、上洛について鎌倉内部で動揺があったことが窺えること。つまり、それまで所領保全を第一としてきた東国武士には、上総介広常に限らず上洛反対の風潮があったのではないか。頼朝の権威権力は、まだそんな東国武士の完全に統御するほどには高まっていないのではないか、というところでしょうか。
従来だと、上総介広常の誅殺で上洛反対派を封じ込め、頼朝が権威を確立した、と解釈することになりますが、確かにこれは単純化されすぎのきらいがある。やはり、頼朝そして東国自体はまだ不安定で、徐々に頼朝が権威権力を確立する、その過程にあったと見るのが妥当かもしれません。
では、義経・範頼は少ない兵力で義仲と戦ったのかというと、そういうわけではなく、以前は義仲上洛に協力した京武者などの畿内勢力、そして伊賀・伊勢の平氏一族の協力が確認できるという。畿内勢力はともかく、伊賀・伊勢平氏というのは意外なところですが、そのうちの平田家継は仕えていた小松流が傍流に転落したため西海落ちに同道せず、また平信兼はそもそも独立した京武者で平氏嫡流の家人ではない。また目的は義仲打倒ですから、考えてみればそれほど違和感はないかも。



(つづく)

*1:中山忠親の日記『山槐記』の抄出