日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第31回「この世の悲しみ」

笑顔の可愛い森迫永依ちゃんともこれでお別れ。一服の清涼剤を失い、今後はむさ苦しい展開の割合が増しそう。
そして毎度のことながら、何故か交渉役を任される一豊。そして相変わらずの交渉下手ぶり。

山内康豊の嫁

前回に続いて今回も、一豊が千代に康豊の嫁を世話するよう頼んでおりました。
ちなみに、康豊は既に妻を娶っていたようです。ただ、本能寺の変後に溝口秀勝を頼って身を寄せていたときに亡くなったそうで、どのみち嫁を世話する話に不自然なことは無いわけですが。
その後を先走って記しておくと、康豊は水野氏女(妙玖院)を娶ります。妻ではなく、どうやら妾だったようなのですが、詳しい事情は分かりません。また、彼女の出自も一豊の妻と同様に諸説あるようです。ちなみに彼女は、一豊の養子となって二代目土佐藩主となる山内忠義を産んでいます。そして何より注目すべきは、彼女の名こそが「千代」だということ。後世の史家のうっかりで名を奪われてしまったようです。
それにしても『功名が辻』では今後どうなるのか気になるところ。ガラシャにかまけているのも結構ですが、彼女のこともお忘れ無きようお願いしたいものです。というか、彼女がいないと山内家には後継者も出来ないので・・・ま、まさかガラシャが康豊の子供を産むなんていう展開はないですよね?(^^;

織田長益登場

織田有楽斎の名でお馴染みの人物。今回の使い捨てキャラは彼か。
当時は甥の織田信雄のもとで宿老としてあり、また秀吉とも友好な関係にありました。そういったわけで、実際にどう動いたかは知りませぬが、秀吉と家康の間の周旋役にはピッタリかな、と思います。

しかみ像

三方原の戦いでの敗戦後の姿を描かせたという有名な肖像画。

あ、あれ?


画像が不鮮明で確認しづらいですが(しかも小さくてスイマセン)、よく知られた徳川美術館所蔵のものとは違う・・・複製かどうかという問題じゃなくて。かといって、西田敏行に似せているわけでもなさそうですし。うーん。

与禰姫死去

天正十三年(1585)11月29日、深夜に起こった天正地震により、落ちてきた棟木によって乳母とともに圧死。享年6歳でした。ドラマ上では10歳ですね。
『一豊公紀』所収「御家中名誉」によれば、御殿に真っ先に駆け付けた五藤為重*1一豊の妻を安全な場所に避難させ、与禰の安否を尋ねられたのに対して安心させるべく「恙無し」と返答したものの、確認すべく戻ってみると亡くなっていた、ということです。
一豊の長浜城主となって4ヶ月目のことで、ナレーションもそのように言っていましたが、ドラマ上では2ヶ月早く7月に城主となったのであるからそれは間違い。閏8月の存在を無視したのだとしても1ヶ月分少ないですし。何とかして下さい。
ちなみに一豊はこのとき三河に赴いていたのではなく、在京していたようです。

天正地震

畿内を中心に広い範囲で被害が出た模様。
飛騨の帰雲城が土石流で埋没したのは有名な話。城主の内ヶ島氏を始め一族家臣が生き埋めになったと言います。
それから、前田利家の弟で越中木舟城主であった前田秀継も圧死しています。前田氏はこの年、佐々成政の降伏で越中西部を得たばかり。長浜を得たばかりの山内家と状況は似ているかと。ただ残念なことに『利家とまつ』では描かれなかったんですよねぇ。前田秀継役を演ずるはずだった菅原加織菅原文太の息子)が事故で亡くなってしまい、代役も立てられず、前田秀継は存在そのものが消去されてしまって・・・。

*1:五藤吉蔵。「御家中名誉」ではこのとき市左衛門。