日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第26回「功名の旗」

武田氏滅亡・本能寺の変山崎の戦い清洲会議と、重大な出来事が次々に起こった天正十年(1582)が終わり、今回冒頭より年が改まって天正十一年(1583)になりました。
前回から繰り広げられた「さようなら吉兵衛特集」の後編。死にゆく家臣のために2話も割くなんて、なんと剛毅な、とも思いますが、そもそも一豊夫妻にはネタが少ないこともありますし、亀山城攻めは股肱の臣・五藤吉兵衛の戦死というだけでなく、一豊の武功において刀根坂の戦いに次ぐとされる戦いでもあるので*1、力を入れるのもそれなりに理解できます。

「9日に安土で三法師君に御拝謁…」

新一郎が一豊に姫路からの知らせとして言上した台詞。このシーンは、一豊夫妻が与禰と鞠遊びをしているシーンからの続きであり、その冒頭のテロップには「天正11年(1583)1月」と出ていました。つまりここでいう「9日」とは「天正11年正月9日」を示していると考えられます。
伊勢攻めは2月のことですから、1月に出陣の準備をすることは至極自然な展開のように錯覚を覚えるのですが、この天正十一年、実は正月と2月の間に閏正月があったのでした。そして、秀吉が姫路から安土へ赴いたのも閏正月のことなのです。『甫庵太閤記』が正月のことと誤って記しているそうですから、原作・脚本がそれと知らずに従ってしまったのでしょう。
太陽暦閏日は挿入される日が2月29日と決まっていますが、太陰暦の閏月が入るのはバラバラで、しかも太陽暦に慣れた現代人には馴染みがないので厄介な代物で注意が必要ですね。

伊勢亀山城攻め

天正十一年(1583)2月、滝川一益攻略のため羽柴勢は近江より三方から北伊勢に侵入しています。
滝川領の西に位置する伊勢亀山城。もとは滝川氏の与力関盛信・一政父子の居城でしたが、その関氏が年初に秀吉方に寝返ったため、滝川一益が関父子の留守に関氏の家臣を説いて奪取。そして滝川氏の家老佐治新介が送り込まれていました。近くの峰城もまた秀吉に降った岡本良勝の居城でしたが、滝川一益が落としておりました。
三方から侵入した羽柴勢ですが、秀吉本隊と羽柴秀次隊は北方より侵攻し、滝川一益の本拠伊勢長島・桑名を攻め、西方より侵攻した羽柴秀長隊がまず峰城・亀山城を攻撃しています。
秀吉本隊は桑名を引き揚げ、亀山城攻撃に合流。山内勢が秀吉本隊・羽柴秀長隊どちらに従っていたのかは分からず。ともかく2月16日より始まった城攻めは秀吉得意の持久戦ではなく力攻めとなり、そのため犠牲者も多く出たようで、五藤吉兵衛もそのひとりと云うことでありましょう。
ちなみに、一豊が城方の突破を許したという話は確認できず、吉兵衛戦死への前振りとして創作されたものと思われます。

五藤吉兵衛の戦死と山内勢の一番乗り

『一豊公紀』所収「御武功記」および同所収「御家中名誉」によると、塀を乗り越えて城内へ突入せんとしたところを敵勢との激闘の末に戦死を遂げた、という。
そしてドラマでは五藤吉兵衛が一番乗りを果たしましたが、旗持の足軽であった三九郎(小崎三大夫)が巽櫓の塀に上がって旗を掲げ、「山内猪右衛門当城之一番乗」と叫んだといいます。というわけで、三九郎の手柄は2話に渡る花道を用意された五藤吉兵衛に持っていかれてしまったのでした。
ちなみに日にちは2月11日のこととされるのですが、矛盾がありこれは誤りとされます。また、亀山城は猛攻に半月持ちこたえ、3月3日に開城しているので、このときの一番乗りは落城に直結するものではなかったと考えられます。まあつまり、本丸のような主郭ではなく、その周囲の曲輪のひとつに乗り込んだのでしょう。「巽櫓」の位置が分かれば手がかりになろうか。

*1:逆説的にいうと他に大した武功がないということなんですけどね(汗)。刀根坂の戦いも亀山城攻めも、その武功は山内家史料に基づくものであって、事実性まで否定しないにしても、世に喧伝されるような派手な武功ではないと言えますし。