日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第24回「蝶の夢」

今週もやってくれましたよ!!!(≧▽≦)
明智光秀が一豊の腕の中で息を引き取る、という斬新な展開にビックリ。スゴイ、スゴイよ。

山崎の戦い

オープニング前にまさかの瞬殺・・・( ゚д゚)ポカーン。
ちなみにこの戦いにおける一豊の軍功は伝わっていません。『一豊公紀』所収「御家伝併御武功記」によれば秀吉本隊に配備されていたようですから、戦闘に直接参加することはなかったのでしょう。

明智光秀の最期

山崎の戦いが行われた天正十年(1582)6月13日の夜、近江へ逃避行中の光秀は醍醐・山科辺りで土民の襲撃を受けて最期を遂げたと云われます。光秀の首級は光秀の重臣溝尾庄兵衛が藪に隠したものの発見されて、15日には本能寺にて晒されています。
まあ、最期の様子は伝聞史料に拠るしかないわけですけど、山内一豊が介在したとして、遺体は一体どうしたんでしょうか(笑)。

柴田勝家織田信孝の傅役?

初耳。両者が結びついたのは清洲会議の結果に対する不満からだと思われますし、また信孝としては兄信雄との対立も絡んでのことでしょう。
「信孝・勝家vs秀吉」という構図があたかも既定路線であったかのような展開とするための設定だと思われます。

清洲会議

天正十年(1582)6月27日、山崎の戦いから2週間後に行われた織田家重臣による会議。会議メンバーはあのように多数ではなく、柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興の四人。
一豊は当然列席してようハズもなく(笑)、そもそも一豊や中村一氏堀尾吉晴はあの時点で羽柴家の重臣とも言えないですし。

三法師くん

三法師役の藤田悠希くん、随分と出番が多かったですけど、幼いながらもしっかり演技しておりました。頑張ったね。

千代頼みの秀吉夫妻

今回は三法師君を手懐けるというお役目を押し付けて、いやいや千代に出番を与えて下さいました。
与禰姫も一緒に連れて来られておりましたが、そういえば三法師も与禰姫も天正八年(1580)生まれの同い年。与禰姫はドラマの設定上、4年早く生まれているわけですが、史実どおりでも釣り合いが取れたのよね。

知行三千石で「しろばん」?

城番か? 読みは「じょうばん」じゃないのかな?
城番というと、城主のような領国の支配者ではなく、お城の管理人さんみたいなもので、だいたい複数名が任じられるもの。
まあ、ともかくこの時期に一豊がそのようなものに任じられた痕跡はなく、長浜城主となるのは三年後の天正十三年(1585)*1。そのうえ、清洲会議によって長浜城と江北三郡は柴田勝家に分配されたのですから、これは一体どうするつもりなのか?と見ていたら、最後のオチに使われました。
なんじゃこりゃ(笑)。わざわざこんなストーリーを差し挟んだ意図が全く見えないんですけど・・・。
それから山崎の戦い後の一豊の知行高ですが、数百石の加増を受けて二千石とも三千石とも云われますが、何だかハッキリしません。そのくらい、という認識で良いのでしょう。

*1:その前年にも長浜城主となったという伝承がありますが、史実としては否定されます。