推古朝と聖徳太子/森田悌/岩田書院
- 作者: 森田悌
- 出版社/メーカー: 岩田書院
- 発売日: 2005/09
- メディア: 単行本
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ひさかたぶりに聖徳太子関連書を読んだのですが、どうにも身が入らない。
本書は『日本書紀』を概ね是として取り扱っているのですが、私の中で『日本書紀』へのスタンスが定まらないんですよね。この時代はほとんど『日本書紀』の記述に拠っているので、それが定まらなければ身の入れようが無いよなー、などとうだうだしながら読み流していたわけです。
ただ、最後の最後にでてきた著者の『日本書紀』への見解が一筋の光になるような気がして・・・
多くの記事を非とする大山氏の推古紀の史料性に対する批判は、誠に厳格となっていて信頼性に富んでいるとみ得るごとくなのであるが、その方法についてみると、皇太子制は推古朝において出現していなかったので、厩戸皇子を皇太子とする記事は信拠とすることができない、ということにつき、甚だ安易といわざるを得ないのである。
確かに推古朝において皇太子制は行われていないのであるが、厩戸皇子を皇太子としているのは、『日本書紀』の編者が同皇子が皇太子格だったので皇太子を文飾した、と解すればよいことなのである。このあたりは、推古朝以前に天皇号はないにもかかわらず、『日本書紀』が大王を天皇としていることを想起すれば、直ちに了解可能であろう。
(中略)
即ち、厩戸皇子に関する『日本書紀』の記事の大半を捏造とみる大山氏の所見は、方法の段階で破綻しているといわざるを得ず、厩戸皇子を凡庸な皇子とみる氏の説は自ずと失当ということになるのである。要は、推古紀の記事を読むに当たっては、皇太子なる語の有無でなく、内容に即しての吟味が必要だということである。
なんか、これを読んで少し救われた感じがする。あんまり突き詰めて考え過ぎるな、ってことでしょ? その方が楽だしね。
でもなー。推古朝以前の天皇の存在も結局は『日本書紀』に依存してるんじゃないのか?などと思ってしまうんですがどうなんでしょう。