幕末の天皇・明治の天皇/佐々木克/講談社学術文庫
- 作者: 佐々木克
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/11/11
- メディア: 文庫
- クリック: 7回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
孝明天皇と明治天皇、それぞれの天皇像を対比・分析、それを通して幕末維新の時代を描き出しています。
明治天皇のイメージの形成過程も興味深いのですが、個人的にはそれよりも幕末史の見解に惹かれるところが多い。
ひとつは八月十八日の政変に関すること。この政変が成った要因についてこう述べています。
長州藩が反抗せずに引き下がったのは、これら諸藩の反長州の行動を、現実として受け止めざるを得なかったからである。ではなぜ諸藩は政変に協力的だったのか。それにははっきりとした理由があった。
(中略)
このような大名家・藩の存続にもかかわる処分*1が、一部の強硬論者*2によって勅命の名の下に行われようとしていたのであり、明らかに幕藩体制秩序・武家社会秩序を破壊に導くものであった。これを知った鳥取藩主池田慶徳は危機感をつのらせ、池田茂政*3、上杉斉憲*4、蜂須賀茂韶*5の諸侯とともに、阻止に動いた。慶徳を立ち上がらせたのは、武家秩序破壊の危機とともに、もしこの処分が強行された場合は、小倉藩と長州藩の戦争すなわち内乱になるという危機感である。内乱こそが国を滅ぼし、植民地化の途を転落してゆくことになるとは、当時の切実な共通認識であった。
日本国家の滅亡にもつながるようなことを、攘夷強硬論者は強行しようとしていたのであった。もはや彼らの暴走・逸脱を傍観し見過ごしておくわけにはいかぬ、というのが在京していた諸侯・諸藩首脳の思いだったのではないだろうか。こうして諸藩が協力することによって八月十八日政変は成功したのである。
と、少々長く引用させてもらいましたが、このように述べ、「会津・薩摩両藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とした尊攘派を京都から一挙に追放したクーデター事件」とするこれまでの一般的解釈を修正する必要性を訴えています。
これからの幕末史は、長州・薩摩・会津といった有力諸藩だけでなく、大勢を決めることになるその他の諸藩の動きにも着目しないといけませんね。
それから、もうひとつは孝明天皇の死因の件。
岩倉犯人説には根拠がないと説かれています。それによれば、岩倉具視は孝明天皇が万機を親裁するという政治構想を抱いており、孝明天皇に大きな期待を寄せていたという。つまり、岩倉犯人説の重要な前提となる「岩倉具視にとって孝明天皇の存在は邪魔なものであった」とする見解が崩れることになる。
これ以上の詳しい解説がないのが残念なのですが、参考文献を挙げられているので、機会があればそれも読んでみたいと思う。