日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

幕末の天皇・明治の天皇/佐々木克/講談社学術文庫

幕末の天皇・明治の天皇 (講談社学術文庫)

幕末の天皇・明治の天皇 (講談社学術文庫)

  • 第1部、幕末の天皇
    • 第1章、天皇の位置の浮上
    • 第2章、将軍をしたがえた天皇
    • 第3章、文久三年八月十八日政変と天皇
    • 第4章、天皇と諸侯との新しい関係
    • 第5章、庶政委任体制と天皇
    • 第6章、朝廷政治の終焉
  • 第2部、明治の天皇


孝明天皇明治天皇、それぞれの天皇像を対比・分析、それを通して幕末維新の時代を描き出しています。
明治天皇のイメージの形成過程も興味深いのですが、個人的にはそれよりも幕末史の見解に惹かれるところが多い。


ひとつは八月十八日の政変に関すること。この政変が成った要因についてこう述べています。

長州藩が反抗せずに引き下がったのは、これら諸藩の反長州の行動を、現実として受け止めざるを得なかったからである。ではなぜ諸藩は政変に協力的だったのか。それにははっきりとした理由があった。
(中略)
このような大名家・藩の存続にもかかわる処分*1が、一部の強硬論者*2によって勅命の名の下に行われようとしていたのであり、明らかに幕藩体制秩序・武家社会秩序を破壊に導くものであった。これを知った鳥取藩主池田慶徳は危機感をつのらせ、池田茂政*3上杉斉憲*4蜂須賀茂韶*5の諸侯とともに、阻止に動いた。慶徳を立ち上がらせたのは、武家秩序破壊の危機とともに、もしこの処分が強行された場合は、小倉藩長州藩の戦争すなわち内乱になるという危機感である。内乱こそが国を滅ぼし、植民地化の途を転落してゆくことになるとは、当時の切実な共通認識であった。
日本国家の滅亡にもつながるようなことを、攘夷強硬論者は強行しようとしていたのであった。もはや彼らの暴走・逸脱を傍観し見過ごしておくわけにはいかぬ、というのが在京していた諸侯・諸藩首脳の思いだったのではないだろうか。こうして諸藩が協力することによって八月十八日政変は成功したのである。

と、少々長く引用させてもらいましたが、このように述べ、「会津・薩摩両藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とした尊攘派を京都から一挙に追放したクーデター事件」とするこれまでの一般的解釈を修正する必要性を訴えています。
これからの幕末史は、長州・薩摩・会津といった有力諸藩だけでなく、大勢を決めることになるその他の諸藩の動きにも着目しないといけませんね。


それから、もうひとつは孝明天皇の死因の件。
岩倉犯人説には根拠がないと説かれています。それによれば、岩倉具視孝明天皇が万機を親裁するという政治構想を抱いており、孝明天皇に大きな期待を寄せていたという。つまり、岩倉犯人説の重要な前提となる「岩倉具視にとって孝明天皇の存在は邪魔なものであった」とする見解が崩れることになる。
これ以上の詳しい解説がないのが残念なのですが、参考文献を挙げられているので、機会があればそれも読んでみたいと思う。

*1:長州藩の下関攘夷に小倉藩が協力しなかったことことから、小倉藩主小笠原忠幹の官位を剥奪し、15万石のうち12万石を没収するという処分。政変直前の8月4日に朝議決定が内示された。

*2:三条実美らの急進的攘夷派。

*3:備前岡山藩

*4:出羽米沢藩

*5:阿波徳島藩世子