日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

山内一豊のすべて/小和田哲男 編/新人物往来社

山内一豊のすべて

山内一豊のすべて

山内一豊の生年は天文十四年か?天文十五年か?

江戸幕府の編纂になる『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』の両系図は天文十五年(1546)説を、山内家の編纂になる『一豊公御武功附御伝記』という伝記では天文十四年(1545)説を採っている。
両系図も山内家が提出したものを基にしているのであるから、どちらも山内家の見解・・・のハズなんですが何故に異なるのか。結局のところハッキリはしないということであるが、両系図は対外的なものであるから公式見解で、伝記の方は秘された事実、と言うことであれば納得がいく。ただ、わざわざそうする理由は見当たらないし・・・うーん。

織田家仕官は永禄十一年の信長上洛時か?

山岡景隆に仕えていたとすれば、山岡が六角氏から離れて信長のもとに従った永禄十一年(1568)に一豊も同じく信長軍に組み入れられたのではないか、と小和田哲男氏は推測しているのですが、それだけでは山岡氏被官から織田氏被官へと変わった理由までは分からないでしょう。まあ、そもそも山岡氏に仕えたことも確実とは言い切れないのですが。
その一方で谷口克広氏は、「山内家関係の諸々の史料によると、山内一豊が信長に仕えたのは、元亀元年(1570)という。」と記しているのですが、これの具体的なことを知りたいです・・・。

やっぱり系譜が山内首藤氏に繋がらない

寛永諸家系図伝』の系図では、山内首藤氏の系譜が鎌倉時代初期の経俊で途切れ、途中を省略して一豊の父・盛豊より系図を起こしているといい、これは先祖の伝承がほとんどなかったことを示唆しているとの指摘。しかも『尊卑分脈』における山内首藤氏の系譜が経俊の世代で途切れているので、『尊卑分脈』を参考としたことが推定できるという。
なるほど。それにしても山内家は潔いですね。系図を捏造して作り上げるくらいのことも出来たろうに。

爺さんが従ったのは

足利義晴じゃなくて足利義稙(義材)という史料もあるんじゃん。
『南路志』巻四十九「山内氏御世伝記」だそうです。

山内氏は丹波じゃなくて越前出身?

室町幕府奉公衆に越前を本拠とする山内氏がおり、一豊の祖先の可能性を指摘しています。織田氏は越前出身であり、尾張守護斯波氏も越前守護を務めており、その斯波氏が越前守護を朝倉氏に奪われて尾張を基盤としたことから、山内氏がそれに従って尾張に移住したとも推測しています。

天正十二年の長浜城主就任の真偽

天正十二年(1184)の長浜城主就任を「初長浜」、翌年の長浜城主就任を「後長浜」、と山内家では呼ぶそうですよ。
で、私は「初長浜」が胡散臭いと感じたのは先日述べたとおりですが、「初長浜」が誤りであるという私の期待どおりの指摘がありました。ふん、私の勘も伊達じゃないな。
それによれば、天正十一年の賤ヶ岳の戦い以来、北近江は佐和山城主の堀秀政の支配下にあり、長浜城は廃城となっていたという。その堀秀政が越前北ノ庄に転封となるのは天正十三年閏八月であり、それはちょうど豊臣秀次が近江を与えられ、山内一豊がその老臣として長浜城を与えられたときに符号する。凄いスッキリした。スッキリしすぎて恐いくらいです。