日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第46回「しずやしず」

おーい・・・もうあと残り3回で、しかも次回は勧進帳でまるまる潰すようですし、ホントにちゃんと終わるんですかねぇ? 中途半端なところで終われば、それはそれで伝説の大河ドラマとして記憶に残るでしょうけど。

何故か居残りの磯禅師

娘の静御前に伴って鎌倉に参じた磯禅師ですが、何故か京都に取り残されてました。義経に「静の想いを無駄にしないで!」と伝えるためだけの措置の模様。しかもその義経は頑固なのであんまり聞き入れる素振りもなく・・・なんなんでしょう。

結局山伏姿の義経主従

なんで吉次は一緒に行動しないねん! 商人姿に化けて船で奥州に向かえばいいのに。義経主従の逃走経路が畿内を除く陸上に残っていないことを考えれば、真っ先に思い浮かぶのは海上交通の利用ですが、定番の勧進帳は外せないってわけですか。

佐藤忠信の最期は美化

佐藤忠信が洛中にて誅されたのは半年ほど後*1。日頃密通していた女を訪ねんと洛中に舞い戻ったところ、このような仕儀に至ったという。
いくらなんでもそんな情けない最期は描けないでしょうから、このくらいの脚色は致し方ないところか。

静御前は既に鎌倉に

誰にも知られずこっそりと? 無茶いうな。ご都合主義にもほどがある。
ちなみに『吾妻鏡』文治二年(1186)3月1日条によれば、静御前はこの日鎌倉に参着したとあります。ドラマの中では日付が示されない上に時間軸が歪んでいますが、『吾妻鏡』に見える静御前関係の記事を軸にして見ていくとしましょう。

頼朝、静御前と対面?

「度重なる詮議にも一切答えない」ので「直々お会いになる」ということでしたが、『吾妻鏡』には頼朝対面の記事はなく、3月6日に藤原俊兼・平盛時といった頼朝側近の吏僚が尋問に当たったとあります。そこでの静御前は黙秘していたのではなく、吉野山でのことをあれこれ話していますが、京都で話したことと食い違うことが多いと指摘されています。3月22日には結局義経の行方については知らないということで、懐妊が明らかになった彼女を出産の後に京都に戻すことになったとあります。
ドラマのように肝を据えて黙秘を貫き通すというよりも、混乱で話す内容が変化したとする方がリアリティあると思うんですけど。どうも北条政子と似たもの同士的な描き方をしたいようなんですけど、芯に関してはともかく表面的なところまで似せる必要もないのではないか。
義経を匿ったとして鎌倉に送られた南都の僧・聖弘が、頼朝との対面にて述べたような理屈を静御前が代弁する羽目になったのも、そいういう演出意図によるものか。

静御前の懐妊を見抜く北条政子

見ただけで産み月まで分かるもんなんですか?(^^;
でも二ヶ月後ではなく、五ヶ月後なんですけどね。でも時間軸が歪んでいるので、ドラマ上ではそういうことなのかもしれない。よく分からない。

静御前義経男児を出産

吾妻鏡』によれば文治二年(1186)閏7月29日のこと。悶える石原さとみ嬢。
始末役は頼朝の雑色・安達新三郎。静御前は鎌倉入りのとき、彼の邸宅に入っているので、そのままそこで出産したのでしょう。彼が赤子を受け取ろうとしても、静御前は抱きかかえたまま泣き叫ぶこと数時間に及び、見かねた磯禅師が押し取って安達新三郎に渡したそうです。
ドラマのように我が子を抱くこともないまま奪われるのと、目の前で奪われ去るのと、当事者にとってはどちらでも言い知れぬ悲しみがあることは間違いないと思いますが、視聴者としては後者の方がより視覚に訴えるので思い入れも深まると思いますがどうでしょうか。
で、結局殺害シーンは無く、その直前のシーンで頼朝が安達盛長に殺害を示唆するに留まりました。安達盛長が代役、というにはちょっと中途半端な演出で・・・彼が汚名を着るのも不満ですが、これもちょっと不満(笑)。

そして『大奥』ちっくな静御前北条政子

吾妻鏡』には北条政子が愁嘆したと。それゆえ、あれこれ静御前の面倒をみたりもするんですけどこれでは・・・。



今回も1度に書ききれず・・・残りはまた後日に。

*1:吾妻鏡』文治二年(1186)9月22日条。