日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

本能寺の変の四国問題原因説は珍妙か?

本郷和人氏の新刊を読み終えました。主旨については特に異論ないのですが、枝葉で気になる点がありました。
それは本能寺の変についての記述。

ところが信長は、急に方針を転換した。武力による四国討伐に着手したのである。ここで奉行としての光秀の面目は踏みにじられることになった。遺恨に思った光秀は、大坂に織田信孝丹羽長秀ら四国討伐軍が集結する直前を見計らって本能寺を襲撃したというのである。
もちろんこれは、一つの、しかもかなり珍妙な考え方にすぎない。たとえば徳川家康は娘を北条氏直に嫁がせていて、豊臣政権下で北条氏との交渉にあたっていた。
(中略)
いわば長宗我部氏に対する光秀と同じような立場である。だが、小田原攻めに際しては、もちろん秀吉方として活動した。光秀が家康よりよほど愚かでなければ、四国問題だけで本能寺の変を起こしたりはしなかっただろう。

小田原攻めの際の家康を例にとり、四国問題原因説を全否定されているのですが、確かに結果として家康は寝返らなかったものの、その件だけをもって「珍妙」とされるのはいかがなものでしょうか。事情が異なれば、行動も異なるわけですから、様々な事例の検証があってしかるべきかと思います。家康は小田原攻めの先鋒を命ぜられましたが、光秀は四国攻めからは外され、面目を潰されていて、事情が異なるのです。
また、家康にしても北条氏に与するという噂があったということですし(史料が江戸時代中期なので、あまりアテにはなりませんが)、否定の根拠とするには相応しくないかと。

わたしが採りたいのは野望説といわれるもので、
(中略)
千載一遇のチャンスをつかんだ光秀は、要するに天下人の地位を望んで主君の信長に反逆したのだ、というシンプルな説である。
冷静な史料批判に拠れば、信長と光秀のあいだに格別な確執は認められない。一級史料である宣教師の記述からすると、二人は合理的な性格で相性も良かったはずだ。怨恨の存在は確認できないし、将来を悲観する必要はなかったし……、ということになる。また、他の説を否定する以上に重要なのが、当時を支配していた価値観の指摘であって、それが「下克上」である。格式やタテマエが尊重されていた日本社会に、いかにして実力やホンネが台頭してきたかを説明し、その潮流の中に光秀の謀反を位置づける。これがわたしのいう「歴史像=史像」の一例である。

そして本郷氏が推すのは「野望説」。しかしこの野望説こそが「珍妙」であると言わざるをえません。
天下人になりたいから天下人をぶっ殺す、という論理、「下克上」の世の中だからといって、いくらなんでもそんな無茶は通りませんよ(^^;
戦国時代の代名詞とされる「下克上」ですが、相手を殺害するケースは多くありません。自分の手はあまり汚したくないでしょうし、評判というのも無視できませんからね。今も昔も同じです。
織田信長にしても足利義昭を追放するに止めていますし、梟雄と呼ばれるような人でも、斎藤道三土岐頼芸を、宇喜多直家浦上宗景を追放しているに過ぎません。
さて、殺害に及んだ少ない事例としては、足利義輝を暗殺した三好三人衆松永久秀大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢、上杉房能・上杉顕定を自刃に追い込んだ長尾為景足利茶々丸を自刃に追い込んだ北条早雲、などが挙げられます。北条の場合は、堀越公方と主従ではなく、かつ、足利義澄細川政元派としての行動であって、下克上といえるのかどうか…。また、三好・松永は足利義栄を、陶は大内義長を、長尾は上杉定実を、それぞれ擁立しています。殺害したとしても、自分が地位を取って代わることは困難で、このように代わりを立てるのが常です。それに陶も三好・松永も長続きせず、長尾にしても国内対立が長く続きました。野望があったならば、時間をかけて、それなりの手順を踏むのが最前の方策ということです。


このように、当時を支配していた価値観に照らせば、光秀の突発的なクーデターによる殺害は、野望があってのことではなく、別の要因があったと考えられます。それが四国問題ではないかと。
また、光秀は悲観とはいかぬまでも不安を感じていたのではないかと考えています。既に老齢の身であったこと、そして嫡男がまだ若かったこと。信長と長らく良好な主従関係を築いていただけに、突然面目を潰されたことで、不安が膨れあがった可能性もあります。佐久間信盛の例も見ているわけですし。


選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)