日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

応仁・文明の乱/石田晴男/吉川弘文館

応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)

応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)

「戦争の日本史」シリーズの第9巻。
応仁の乱についての概説書です。遡ること義教期より書き起こし、乱後の経過についてもそれなりに紙幅を割いていて、本書で取り扱っている期間はかなり長くなっており、ボリュームのある内容になっています。応仁の乱関連の書籍を読むのは非常にひさしぶりということもあり、頭の中の整理がなかなか出来ず、読むのも苦労しましたが*1、混沌とした時代が好きなので、読んでいてワクワクしました。
ちなみに応仁の乱は、応仁年間(1467〜1469)だけでなく文明年間(1467〜1487)にも及ぶことから、書名に採用された「応仁・文明の乱」とも称されるのですが、上記のようにそれ以外の時期も取り扱っているだけに、より一般的な「応仁の乱」を採用した方が良かったような気もいたします(^^;


さて、本書の大きな特徴は、家永遵嗣氏の研究成果を基礎として、日野富子元凶説の否定、そして関東の争乱*2との連動性という視点にあります。
特に日野富子元凶説の否定はインパクトがありました。自らの産んだ義尚を将軍にするため、足利義視(義政の弟)を押す細川勝元と対立する山名宗全を頼り、それがために応仁の乱が始まった、というのが従来の一般的な見解になるでしょうか。たぶん学校の授業などでもこのように習うハズです。
しかしこの話はどうやらトンだ大嘘らしい。『応仁記』によって捏造され流布したもので、日野富子に乱勃発の張本人という濡れ衣が着せられたという。もう少し詳しい事情を知りたいところですが、そこは家永氏の著作を読まねばならぬようです(^^;
ともかく、改めて考えてみると日野富子元凶説では筋の通らぬ不可解な点があります。ひとつは、富子が山名宗全を頼ったという話ばかりが先行していて、乱勃発後に両者が具体的に提携・連携したという話が聞こえてこないこと。それに義尚が産まれたのは乱勃発の2年前で、そんな無事成長するか分からぬ幼児を擁して将軍継嗣の座を争うのは気が早すぎるのではないか、リスクが大きすぎやしないか、ということ。また、後に義視は山名宗全の西軍に走るのですが、富子・義尚が東軍に寝返ったなどという話を聞かないこと。…などなど。
結局、日野富子が元凶ではない、足利将軍家家督争いが原因ではない、と考えるのが最も理屈が通るのではないでしょうか。


最後にもうひとつ興味深い視点を紹介します。
足利義政について一般的には、思い通りにならない政務に嫌気が差したので、芸術方向に走り、東山山荘(銀閣)造営に熱を上げるようになった、と言われ、応仁の乱もそんな義政が政務を放棄したために起き、長期化したのだ、というような評価もされるのですが、そんな義政像は一面的に過ぎないというか正確ではなさそうです。

義政はこれまで堀越公方足利政知、次期将軍候補として足利義視を選んでいる。しかし実際には多くの権限を与えることなく、自らが権限を掌握したまま譲り渡すことはなかった。
(中略)
義政は自らの意思を反映させて実現に動く役割を求めただけで、義尚もまた同様に扱っていたと思われる。義政は権力の委譲や、政策の失敗、意思の貫徹ができない時の処理の仕方に問題がある。

義政が権力を握っていたため、自立を図る将軍義尚と対立が起こり、義尚は若さ故か親征という強引な手段で将軍権力を固めんとするも孤立して陣没する結果になりました。義尚の破滅を招いたのは父義政の権力欲と言えましょう。権力や政治に無関心であるというイメージは、改めなければなりませんね。

*1:読んだだけで、理解していない箇所はたくさんあると思われw

*2:享徳の乱後、古河公方と堀越公方に分裂した状況。