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日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

関ヶ原合戦と土佐長宗我部氏の改易/平井上総/日本歴史(718号)

論文

長宗我部盛親といえば、関ヶ原の戦いで西軍に属しながら何ら働きもないまま土佐へ逃げ帰り、挙げ句の果てにノコノコと上坂して敢えなく改易処分となったことでお馴染みですね。とはいえ何の見通しもなく上坂したわけではありません。家康に直接謝罪することで長宗我部家存続が許される、という約束があったようです。
それではどうして改易となったのか。通説では、直前に盛親が兄津野親忠を殺したことが家康の怒りを買ったためとしてきましたが、それに対して

この時期に*1、同じ豊臣政権下の大名を、家康の個人的な感情で改易できたとは考えがたい。


このように疑義を呈し、一次史料を検討することによって改易要因について考察しています。そして以下のように結論付けています。

盛親の上坂は、土佐国の没収を前提とした降伏に近いものであり、それと引き換えに「御堪忍分」を得る予定であった
(中略)
長宗我部氏への「御堪忍分」の給付が取り消されたのは、公儀によって派遣された浦戸城受け取りの使者に対して、浦戸一揆が反抗したためであり、徳川氏の政治的・戦略的な判断によるものであったと考えられる。

なるほど。大いに納得がいきます。長宗我部の重臣たちが浦戸城接収に積極的だったのも、浦戸一揆鎮圧に乗り出したのも、これで全て説明がつきますね。

*1:家康は関ヶ原の勝利によって絶対的な地位を手にしたわけではなく、戦後段階的に確立されていきました。