日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

徳川光圀/鈴木暎一/人物叢書

徳川光圀 (人物叢書)

徳川光圀 (人物叢書)

御存知水戸黄門。細かい事績はともかく、基本的な事項でも意外と知らなかったことが多いです。


まず、兄頼重*1と同母兄弟であること。彼ら兄弟は産まれる際に、どちらも父頼房によって堕胎を命じられていた*2ことはよく知られた話ですが、その理由として人口に膾炙しているのは、頼房の兄である徳川義直尾張家)・徳川頼宣紀伊家)に嫡子が不在だったため、先を越してしまうのを遠慮したのだ、というものです*3
しかし頼重・光圀兄弟が同母兄弟ということは、母の立場が関係しているのではないか、と思ったのですが、どうやらその通りらしい。母久子(谷氏)が側室たちの間で勢力がなく、また寵妾のお勝(佐々木氏)に配慮したものという。ただ、こういう場合は相手が正室であれば話は分かりやすいのですが、いくら寵愛第一といっても同じ側室でそこまで配慮するものだろうか、という部分で少し引っ掛かります。それだけお勝(佐々木氏)が気性の激しい女性だったということなんでしょうか。
また頼重に関しては、久子(谷氏)が側室となる前の懐妊だったため、同母弟の光圀との間に待遇の違い*4が生まれたとしています。その結果が嫡庶に表れた、ということでしょう。


つぎに、上記と関連することですが、お勝(佐々木氏)所生でひとつ年下の弟頼元*5が有力な嫡子候補であったらしいこと。世嗣内定は将軍徳川家光の委任を受けた付家老中山信吉が選定し、復命することで行われており、頼房が終始表面に立たずにいたのはお勝(佐々木氏)への配慮によるものだろう、との見解は興味深いです。
とはいっても、光圀の世嗣内定は特に何事もなく平和裡に実現しているので、実際のところお勝(佐々木氏)の影響力はそれほどでは無かったようにも見えます。結局、お勝(佐々木氏)がどのような女性であったのか、それが分からないので何とも言い難いところですね。


三つめは、光圀の一子・頼常が生後すぐに兄頼重に引き取られていること。光圀は兄を差し置いて継嗣となったことを気にかけており、そのため兄の子*6を養子に迎えて自らの継嗣とし、頼重もまた光圀の子を養子に迎えて継嗣としています。この子息トレードはよく知られた話ではありますが、まさか頼常がこんなに早く引き取られていようとは。てっきり、綱方・綱條兄弟の養子入りと同時期くらいなのかと思っていました。しかも驚くことに光圀は、懐妊を知ると堕胎を命じているのだ。「歴史は繰り返す」とは言うけれど、なんと言う因縁でしょう。
実はこのとき、光圀には縁談が進められていており、頼常誕生の3ヶ月前に五摂家近衛家の姫君と婚約している。そんなわけで一見すると、高貴な姫君を迎えるに当たっての体裁を整えるための措置のようにもみえますが、光圀は単に子供を作りたくなかっただけのようで・・・。それもこれも兄の子に譲るという決意が固いあまりのことで、頑固なのも大概にせいよ!って感じですかね。そもそも、することはしちゃってるワケだし(^^; ただ、その後は女性関係が見えないようで・・・近衛家から迎えた正室も僅か4年で早世しており、長らくやもめ暮らしだったのだろうか。大名としては珍しいように思います。


最後は、もともとの諱が「光国」だったということ。しかも「光圀」を使用するのは56歳からで、人生の大半を「光国」で過ごしていたとはね。また変更の仕方も、何らかしらのタイミングで一挙に切り替わる、というわけではなく、「光国」「光圀」の併用時期を経て、「光圀」へと収斂されていくということで、そんな成り行きの行きがかり上みたいなことでいいのか!とか思ったり(笑)。
それから「圀」の字は、則天武后の作った則天文字で「国」の当て字だとか。何故そんな字に変更したのか、その理由については、『大日本史』編纂の史料集めのためにこの頃から頻繁に公家との書簡の遣り取りをするようになり、公家への遠慮から格落ちの文字を使用し始め、それが定着していったのではないか、と推測しています。んー、いまひとつ釈然としない感じがして、すぐさま首肯できないのではありますが、どうも光圀は秩序主義者の色合いが強いようなので、その点を鑑みれば可能性は高いのかもしれない

*1:幕府の取り立てにより讃岐高松藩主。

*2:しかし家臣の三木夫妻が主命に逆らい密かに赤子を誕生させている。三木夫妻が処罰されることはなく、かえって栄進していることから、頼房の命令は表向きのことで、三木夫妻の行為は頼房の内意に添ったものだった、とする見解は首肯できる。

*3:これについては、尾張家の光友が1625年生、紀伊家の光貞が1626年生であるため、頼重(1622年生)は該当するものの、光圀(1628年生)についての説明が付きにくいと指摘している。

*4:特に光圀が水戸で育てられたのに対し、頼重は京都に送られたことは大きな差となったのではないか。

*5:光圀より分知をうけ常陸額田藩主。

*6:綱方・綱條の兄弟。