日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第42回「ガラシャの魂」

田中孫作キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
ってか、一豊はいつまで迷ってんねん!(゜◇゜)クワッ 迷い続けた去年の義経を思い出しましたよ(;^_^A

上杉遠征への従軍

上杉討伐が決定された後、一豊は家康に先立って帰国する。何のためか? 東海道を東下する諸大名の軍勢は数万に及ぶ大軍であるから、色々と便を取り計ることもあるでしょう。また、遠征に向かう家康の饗応もあるでしょう。しかし何より軍勢の動員である。会津遠征に従軍するための軍勢動員。従軍は既定路線です。

石田三成大坂城へ?

えーと、反家康の挙兵直後に大坂城へ入城したようになっていましたけど、実際には佐和山城を動かず、大坂城に入ったのは7月末で、挙兵から半月近く経ってからのはず。それも濃尾方面に出陣するため一時的なもの。
大坂城に入ったのは毛利輝元で、家康が居していた西の丸から留守居の佐野綱正を追い出して、ここに入っています。
諸大名に発した家康弾劾状である「内府ちかひの条々」も増田長盛長束正家前田玄以の三奉行*1連署によるものであり、公職を追われた三成は、あくまで表には出てきていません。それは彼の謙譲の美徳とも受け取れますが、むしろ彼の力の限界を示していると考えられます。

田中孫作と笠の緒の文

長浜時代より山内家に仕え、見性院の側近くに仕えていたという田中孫作。一豊夫妻の廟所がある妙心寺大通院に彼の墓もあります。
見性院より託された密書を編み笠の下緒によりこんで、無事に一豊届けたといいます。同時に運んだ西軍からの勧誘状の方は文箱に入れていたそうですが、こちらは奪われても構わん、ということだったんでしょうか?(^^;
ちなみに、道中盗賊に襲われて身ぐるみを剥がれてしまったので、通りすがりの浪人を襲って身ぐるみを剥いだという武勇伝が伝わっております(^^;

市川山城の上坂

掛川を出陣し、鞠子宿に到着した一豊は、ここで家臣の市川山城らを大坂に派遣。どうやら上方の不穏な情勢を察知したとみられ、見性院の身辺警護のために遣わしたようです。
熱田神宮禰宜に変装して関門を突破した話ですが、ギャグかと思いきやソースがある模様(『御納戸記』)。もちろん山内康豊が同道したのは創作で、ガラシャと絡ませるためなんでしょうけど・・・正直あんまり絡まんかったし。なんのこっちゃ。つーか、康豊が来ちゃったお陰で市川の存在意義と出番が・・・。

西軍の人質作戦

細川忠興夫人・ガラシャは家臣の介錯を受けて命を絶ち、加藤清正夫人(家康養女・水野忠重の女)や黒田如水夫人(櫛橋氏)・黒田長政夫人(家康養女・保科正直女)の嫁姑は脱出して、海路を採って領国に入っています。
では我らが見性院は一体どうしたのでしょうか? うーん、自害を覚悟したということなのですが・・・えーと、特にこれといったことは無かったようです(^^; 脱出せずに、そのまま大坂の屋敷にいたんですね。それもこれもガラシャの死で人質作戦が有耶無耶になったお陰でしょうか。ドラマのような立ち回りは伝わっておりません。
それにしても増田長盛がいいようにあしらわれていていたのが泣ける・・・(;_:) 

今回の時系列

かなりいい加減な展開でしたので、ここはひとつじっくり違いをまとめてみようと思います。


主要なところをざっと列挙してみました。
ドラマとの整合性でまず目に付くのは、一豊の出陣がだいぶ引き延ばされていること。出陣後であった市川山城の大坂派遣が、出陣前になっているのはともかく、石田三成が動くという噂を耳にした千代が家臣を掛川に下すシーンがありましたが、これはどんなに早くとも一豊出陣の7月3日より前に遡ることは不可能。当然、その家臣たちが掛川に到着してまだ出陣前なんてことは有り得ない。まあ、不可能を可能にしちゃう千代ですから、超能力で予測でもしたんでしょうか。って、噂を伝えたのは五藤吉蔵でしたから、彼がエスパーか未来人か(^^;;
次に、家康弾劾状の発布とガラシャ死去は同日なわけですが、これがどうにも数日経っているような描写でした。密書と家康弾劾状を携えた田中孫作が出発できるのはどんなに頑張っても7月17日で、関所のシーンが同日夜だとしても、すれ違いに関所を突破した康豊と市川山城が大坂に到着したシーンは早朝になっていましたので、ガラシャの死はどうがんばっても翌日ということになってしまいます。
それと、康豊と市川山城はのんびりしすぎ。物見遊山じゃないんですから、掛川から近江まで10日以上もかかるのはちょっと・・・。


というわけで、短期間のお話の中でも時間感覚がだいぶ操作され、脚色されております。今回、ドラマ内で日付には全く触れられていないのもそのためでしょう。

*1:五奉行のうち、石田三成が七将襲撃事件によって奉行職を逐われたほか、浅野長政が家康暗殺未遂の嫌疑をかけられて、やはり奉行職を逐われています。ただ彼は家康と親しく、謹慎先は徳川領内の武蔵府中で、息子の幸長も家康に従って行動しています。

*2:7月5日とも