日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第41回「大乱の予感」

季節の変わり目に散策の疲れが重なって、ここしばらく体調不良が続いています( ̄_ ̄)
そんなわけで、言及する気力を欠いていましたが、そろそろ着手したいところ。乞うご期待。

諸大名の選択肢

前回、「豊臣」と「徳川」という対立軸、という基本的な設定の問題点を指摘しましたが、若干の変化は見られたものの、今回も根本的な問題がそのままなんで改めて言及します。
若干の変化というのは、家康が豊臣秀頼を擁していることに触れたためか、「豊臣」が「石田三成」へとシフトしました。うん、確かにこれなら豊臣家内部での対立ということになりますね。
しかーし! 問題はこの時点における石田三成の立場です。彼の庇護者である豊臣秀吉はとうに亡く、さらには奉行職を追われて隠退の身。そのような彼を、専権を振るい始めた徳川家康の対抗馬として、諸大名が見ていたと考えるには無理があります。
このような設定は、石田三成が西軍を主導し*1関ヶ原の戦いで家康に挑んだという結果から、遡って導き出したものでしょう。言うなれば、結果を知る後世の人間でなければ無理のある、当時にあっては現実性の乏しいもの。
もし選択肢に悩むというのであれば、家康に靡くか、反発するか、といったところが妥当なところかと。すなわち、主導権は家康にあり、三成は対抗馬ではなかった。だからこそ、三成はよく健闘したと言えますし、逆にそれゆえに敗北したとも。いかんせん西軍陣営は急ごしらえであり、かつ「反家康」で集った寄せ集めゆえに統制を欠いたものと思われます。


とにかく、これに限らず現実性を欠いた後世史観からは脱却したいものですね(-。-)ネタとしてもオイシクありません。

苦悩する一豊

家康に従うべきかどうか迷っている様子がかなりアピールされる展開でありましたが、さて、実際のところはどうだったのでしょうか。
もちろん、心情のうちを探ることは容易ではありませんが、出来うる範囲で考えてみましょう。
まずドラマのいうような「豊臣か徳川か」といった選択肢は想定できないのであるから、焦点は家康との関係に絞れます。その家康との関係ですが、格別に緊密さを示すようなエピソードもなく、かといって疎遠というわけでもなく。そもそもの史料が少ないので、詳しいところが分からない。わずかな手がかりは、慶長四年(1599)には家康に従って豊国社に参詣していることくらいか。とはいえ、一豊には積極的に家康に反発する理由もなく、積極的に家康に従ったとまでは言えなくとも、流れに沿って行動し、特に迷うことも無かったのではないかと思います。
中村一氏堀尾吉晴は三中老という立場もあってか、会津遠征の中止を求めていますが、一豊にはそのような立場は関係なく、むしろ気楽なモンだったかもしれません。

石田・上杉の東西挟撃策について

直江兼続サンったら、大事な時期に領国をすっぽかして佐和山城に来ちゃってるし(笑)。
それはまあご愛嬌として、気になるのは、両者の共謀はあったのか?あったとすればいつの時点なのか?という点。
まず可能性が低いのは、慶長五年(1600)春に徳川・上杉が対立する以前。この説に拠れば、上杉氏は家康を誘き出す囮の役を買って出たことになるが、いくらなんでもそんな高いリスクを犯したとは考えにくい。しかも隠退に追い込まれて政治的影響力の低下していた三成をアテにしなければならない。可能性があるとすれば、徳川・上杉の対立以後になるでしょう。
まあ、ただ共謀があったとしても畿内と東北ではあまりに遠く、上杉が南進せずに北進したことが示すように、各個にそれぞれが戦うということであったと思われます。

小夜の中山での饗応

慶長五年(1600)6月15日に黄金1万枚と米2万石を豊臣秀頼より下賜を受けた家康は、翌日に大坂城を発して会津遠征の途につき、江戸までの各所で諸大名の饗応を受けている。
一豊が領内の小夜の中山で饗応したのは6月24日。病身の中村一氏が家康に挨拶するため訪れたのは創作。しかし一氏サン、「あとはそちひとりで走れ、功名を挙げよ。」って、いったい一豊にどうしろと言いたいの?(^^;

さらば中村一氏

死去はほぼ一ヶ月後の7月25日。小山評定と同日というのが、ちょっと運命的かも。
それにしても、中村一氏はもっと活かせるキャラクターだと思うのですが、見せ場が少なかったことは残念。全ては一豊を狂言回しとして英雄中心のストーリーを採ったためで、身の丈にあったストーリーであれば活躍の場は広がったことでしょう。

*1:主導したか否かで議論にもなりますが。