日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第5回「新妻の誓い」

一豊の動向が判明するまであと6年*1。これまでどおり、織田家の動向を軸に話は進み、一豊夫妻に関する部分は虚構で補っていますが、今回は軸になる出来事がお市の方の縁談のみとあって、あれやこれやと苦心の様が窺えます。

堀尾吉晴中村一氏

一豊の朋輩である二人。この二人にもちょっと興味がある。でも、両家とも無嗣断絶となっているので、一豊より史料は少ないのでしょうなー。妻の出自もやっぱり不明かと。

丸三葉柏紋

山内家の家紋のひとつ。
一豊の父盛豊のときの吉例に由来するという話は真偽不明なれど、これは『寛永諸家系図伝』にみえるとのこと。

パッチワークの小袖

江戸時代に記された『旧記』にみえるという話。
もちろんこのときの話としてではなく、一豊の長浜城主時代に作った縫い合わせの小袖が評判を呼び、秀吉さらには天皇へと献上された、というサクセスストーリーになっています。へそくり伝説同様に、一豊の妻伝説のひとつとして捉えるべきでしょう。
それにしても、どんどん前倒しで話を持ってきますなぁ。この時代の動向が不明なだけにエピソードもつぎはぎですか。

俎板代わりの枡

節約主婦ぶりを物語る伝説の枡。その枡は、高知の藤並神社(現・山内神社)に御神体として奉納されていたそうなんですが、戦災で焼けてしまって、図版などに使われるのは模造品。
その模造品、現物の焼失以前に作られたもので、へこみとか傷もそのまま再現されているとか。先日の「山内一豊とその妻」展*2にも出品されていました。

お市の方の輿入れ

『浅井三代記』は永禄七年(1564)とするのですが、縁談がまとまったのは信長の美濃制圧以降で、輿入れは翌永禄十一年のこととみられます。つまりその年の8月の信長上洛の直前と。

*1:前回稲葉山城を落として美濃を制したので、いまは永禄十年(1567)の模様。山内一豊が刀根坂の戦いで手柄をあげ、近江で四百石を拝領するのが天正元年(1573)。

*2:特別展「山内一豊とその妻」/江戸東京博物館 - 日本史日誌