日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第44回「静よさらば」

平知盛の亡霊が海上に出現したり、鬼一法眼が妖術を使って助太刀したり、と今回はファンタジー色強すぎ(笑)。
それにしても、残り少ないので話飛ばしまくりんぐ。毎年恒例とはいえ、やっぱ気になりますわねぇ。

義経没落

挙兵から僅か半月後の文治元年(1185)11月3日、源義経源行家は西国を目指して都落ち。戦装束であったため、ドラマのような後白河院への最後の御挨拶は遠慮したとのこと*1。平家や木曽義仲没落のとき同様、このときも後白河院を伴うことが頻りに噂されていたようですが、どうやら義経にはその気がなかった模様。もし後白河院を伴っていたら・・・どうでしょうかね。少なくとも、後世に「判官贔屓」の言葉は生まれず、逆に義経は悪名を残すことになったのではないだろうか。
さて、義経は九州の地頭、行家は四国の地頭に補されたといいまして*2義経は彼の支援者であった刑部卿藤原頼経知行国豊後を目指します。
都落ちの理由は何と言っても兵が集まらぬことにあり、「都を戦火から守るため」というのは美化に他なりませんが、それでも都落ちに当たって平家のように火をかけることもなく粛然と立ち去ったことは評価してしかるべきでしょう。九条兼実も「義士と謂うべき」と賞賛していますしね*3
直前まで北陸下向も取り沙汰されていましたが、結局は西国へ。義経にとってはどちらもあまり馴染みのない土地。北陸に向かったとしても大して好結果は望めそうにはないですね。

頼朝出陣

文治元年(1185)10月24日に、彼の念願であった勝長寿院の供養法会が営まれ、多数の御家人が列席しています。これを済ませるとすぐに上洛への準備に取りかかり、10月29日に大軍を率いて鎌倉を出発。11月1日には義経との出会いの地・黄瀬川宿に着陣して、義経都落ちが伝わった翌日11月8日まで逗留することになります*4。わざわざこんなところに着陣するのも頼朝の演出のひとつなのか、或いは『吾妻鏡』が何らかの脚色をしているのかもしれません。

河越重頼女と静御前

西国没落に伴ってもらえたのは静御前。萌ちゃんこと河越重頼女は鎌倉に帰されることになっちゃいました。最後までカワイソウな人だ。
河越重頼女が実際どうなったのかは記録が無いようなんですが、気になるのは義経が奥州で最期を迎えたときに妻子が一緒だったということ。この「妻」が河越重頼女と目されていますが、如何せん逃避行中の記録が乏しいので義経に付き従っていたのか、別ルートで奥州に向かったのかは謎。また河越重頼女とは別人の可能性も無くはないんですよね。

都落ちから大物浦まで

駆け足進行のために何事もなかったかのように到着していましたが、多田行綱を始めとする摂津の武士が行く手に立ちふさがって合戦に及び、義経は勝利したものの離脱者が出たようで、少ない兵力がますます少なくなったそうです*5

大物浦の遭難

大物は現在の尼崎市、海岸埋め立ての影響でだいぶ内陸になってしまっていますが、湊として栄えたところ。
屋島へ向かう際には、出航まで1ヶ月も準備に費やしましたが、今回は出京より僅か3日で出航の強行軍。率いる兵力に大きく差があるとはいえ準備不足は否めないでしょう。遭難もむべなるかな、という感じ。単純に「不運だった」で済ますことは出来ない。
吾妻鏡』文治元年(1185)11月6日条によれば、「疾風俄に起こって逆浪船を覆」して一行は散り散りとなり、義経らはその夜天王寺の辺に一泊したとか。
一方『玉葉』によると、11月7日の時点では義経が豊後の武士らに誅されたとか、逆風で海に沈んだとか情報が交錯しています。翌日になると情報がハッキリした模様。それによると、大風が吹いて船が損亡し、義経・行家らは小船に乗って和泉浦に逃走。案内役として義経に従ったと思しき豊後の武士らは、追っ手*6に降参したり生捕りになったりしたようです。



つづきはまた後日

*1:吾妻鏡』文治元年(1185)11月7日条。

*2:吾妻鏡』文治元年(1185)11月7日条。

*3:玉葉』文治元年(1185)11月3日条。

*4:以上、『吾妻鏡』に拠る。

*5:玉葉』文治元年(1185)11月4日条、『吾妻鏡』同年11月5日条。

*6:摂津の武士・豊島(手島)冠者、木工頭高倉範季の息子範資ら。