義経 第39回「涙の腰越状」
後半15分ほどがまたもや回想シーン。うーん。
ひとまずストーリー批評はさて置いて、『腰越状』を中心に考察するとしましょう。
腰越到着から腰越状までの義経
『吾妻鏡』の記事から列挙してみます。すべて元暦二年(1185)5月の出来事。
- 5月15日 酒匂宿到着、頼朝は北条時政を使者に派遣、鎌倉入り為らず
- 5月16日 平宗盛ら鎌倉入り、後藤基清*1と伊勢義盛の従者同士が乱闘
- 5月17日 一条能保鎌倉入り、前日の事件を頼朝が聴き不快感を示す
- 5月24日 腰越状を送る
あ、乱闘事件スルーされてるや(笑)。
小動神社
北条政子・大姫との密会場所に指定された小動神社は、満福寺から200mほど離れた、ホントにすぐ近くにある神社です。
この神社、伝承によれば佐々木盛綱が文治年間(1185〜1189)に勧請したということなので、当時もしかすると無かったかも。それから、「小動神社」という名は明治時代の神仏分離令による改称で名乗ったものだそうですよ。
腰越状の実否
何と言っても、この問題に取り組まねば義経は語れないでしょう。この腰越状をどのように捉えるかによって義経の評価も大きく変わると思われます。
まず、『源 義経 (講談社学術文庫)』(講談社学術文庫)で故角川源義氏が、
私はこの腰越状は義経みずからによって書かれたものでなく、まず盲僧によって語り出され、むだのない簡潔さで、はやくも定本化したのち、『吾妻鏡』に収められたものと考える。
と、腰越状が虚構であることを指摘。その理論を簡潔に記すと、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本・『義経記』などに所収される書状内容がほぼ同文であるにも関わらず、宛名の大江広元の表現が異なり、そこに腰越状が歴史化する過程が見てとれるとのこと。
ちなみに角川氏は、書状が虚構であっても、その内容はこの時代の人々が義経にかわって頼朝に訴えたい真情を述べたものとし、ある意味での正確さをもったものとして評価しています。
それに対し、『源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― (角川選書)』(角川選書)にて菱沼一憲氏は、角川源義氏による腰越状の虚構性に関する記述を引いたうえで、
こうした評価がある以上、腰越状とその関連叙述の歴史史料としての信頼性は極めて限定されていると理解すべきである。
と、内容に関しても否定する向きを示しています。これは頼朝と義経の対立過程を考えるうえでキーポイントとなるので、個人的に最も賛同・プッシュしたい意見です。
吾妻鏡的通説理解に従えば、自由任官問題等で頼朝の不興を蒙った義経は腰越状を認めて弁明を試みるも面会すら許されず京に追い返され、恨みに思った義経は不満分子となる。と、こういうことになると思います。だが、以前にも何度か記していますように、この理解に基づくと、頼朝が義経を追い返してしまったのは何故なのか、拘束なり謹慎なりさせなかったのは何故なのか、これが解けない。どうしても強引に陰謀史観、つまり義経を抹殺したいから、そして朝廷を巻き込み打撃を与えたいから、という説明に行かざるを得なくなる。
だが、そんな気の長く先行き不透明な陰謀は現実的でないし、対立の決定打となったと言われる土佐坊昌俊の義経襲撃についても頼朝の指図ではなく、また義経の挙兵の方が先だという指摘がある*2。
つまり頼朝側として、この時点においてそんな厳しい態度に出る必要性も蓋然性もないといえる。そこで注目したいのが『平家物語』の読み本系諸本。これらでは、義経は5月17日に鎌倉入りして頼朝と対面したことになっているらしい。その対面では簡単な慰労の言葉をかけただけという。
これに基づけば、この時点で義経に不満が芽生えて徐々にそれが拡大し、結局4ヶ月後の挙兵に至る、という過程の説明がスムーズに理解できるのだが。
*1:頼朝義兄・一条能保の侍でかつ、御家人。