日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第1回あらすじ「運命の子」

公式サイト見に行ったら、月曜*1のときより増量してました。

寿永三年(1184年)二月七日、播磨・一ノ谷。そそり立つような断崖絶壁の上、源氏軍を率いる源義経滝沢秀明)は、今まさに、宿命の敵となった平家軍を奇襲しようとしていた。対する平家軍には、総大将・平宗盛鶴見辰吾)とその弟・知盛(阿部寛)・重衡(細川茂樹)の姿。今は敵味方に分かれた義経と宗盛らだったが、その幼少時代、本当の兄弟のように過ごしていた時期があった……。
平治元年(1159)十二月。平治の乱で源氏軍が平家に破れ、京の都を追われた源義朝加藤雅也)の愛妾・常盤(稲森いずみ)は、まだ乳飲み子の牛若(のちの義経)と幼い子らを抱え、雪の中をさまよい歩いていた。
一方平家では、捕らえた源氏の嫡男・源頼朝池松壮亮)の処遇をめぐり、ある事件が起きていた。清盛(渡哲也)の継母である池禅尼(南風洋子)が頼朝の助命を求め、食を断つという行為に出たのだ。「敵方の嫡男を助命するなどもってのほか!」と考える清盛だが、そんなところへ常盤が三人の子を伴って出頭する。自分の命と引き換えに、捕らえられている母親と、わが子を助けて欲しいと訴える常盤。その胸に抱かれた赤子の牛若に、幼い頃に母親を失った自分の姿を重ねた清盛はある決断をする…。

あらすじからすると、第1回の構成は


ということになるでしょうかね。
一ノ谷はこの先またやるでしょうから、第1回メインとなるのは平治の乱後における義朝遺児の処遇についてということになる。


前々から疑問に思っていたのだが、平清盛に彼らの処遇の決定権があったのだろうか。ドラマや小説などでは彼の意思で全て決まっていたようなイメージを受ける。確かに乱平定の勲功者であり、かつ義朝亡きいま朝廷の武力を一手に引き受けるからには、その発言力はかなりのものがあったろうが、頼朝の配流の時点ではまだ公卿ですらなく、全部が全部思うがままになったとは考えにくい。逆にそんなことをしてしまったらかえって反発を呼び、その後の栄達は無かったかもしれない。
また常磐母子や頼朝の助命に関する史料は基本的に『平治物語』になるのだろうが、その中で清盛は

義朝が子共の事、清盛が私のはからひにあらず、君の仰をうけ給はてとりおこなふ計也。うかがひ申て、朝議にこそしたがはめ。

と語っている。とは言っても言われるがままに処分を執り行っていたわけではあるまい。藤原成親の場合、死罪が決まっていたのを義兄弟であった平重盛が勲功と引き換えに助命を願い、解官で済んでいる。つまるところ池禅尼の頼朝助命嘆願は、清盛に朝廷へ嘆願してくれるよう頼んだものとするのが妥当なところだと思うのだがどうだろう?