日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

真田幸隆の実名・法名をめぐって/寺島隆史/信濃(60-2号)

真田幸隆の実名は、正しくは「幸綱」である、とする説が近年定着しつつあります。確かな史料においては「幸綱」とあり、「幸隆」は見えない、というのがその根拠なのですが、それに待ったをかけた論文。


まず「幸綱」と見える史料については、2つしかないという。
ひとつは、真田家の高野山における菩提寺である蓮華定院の「過去帳月坏 信州小県郡分」。

玉窓貞音大禅定尼 天文九年己亥四月二十六日 真田弾正忠幸綱母儀


もうひとつは、四阿山社殿の古扉残欠の銘文。

奉修営四阿山御宮殿 大檀那幸綱并信綱 蓮花童子院別当良叶 細工綱丸 永禄五年壬戌六月十三日


意外に少ないですね。とはいえ、「幸綱」を名乗ったことは確実であります。
問題は確かな史料が無いとされる「幸隆」の史料。これが、今まで見落とされてきたようです。それはとうの昔に刊行された『信濃史料』(第十四巻)に収録されているもので、先ほどと同じく高野山蓮華定院過去帳の記録。

月峰良心庵主 奉為真田一徳斎幸隆公 真田安房守殿建之 天正二甲戌五月十九日入寂


息子の真田昌幸(安房守)が父親の菩提を弔うべく登牌したという記録で、当人の死後のものですが、息子が間違えるとも考えにくく、信頼を置けると思われます。
「一徳斎」との組合せであることから法名ではないか、という反論もあるそうですが、実名による用例もあることを指摘しており、実名とみることに問題はなさそう。何より月峰良心が法名ですしね。


ということで、「幸綱」と「幸隆」どちらも確認できるということになり、はじめ「幸綱」、のち「幸隆」に改名したものと結論づけています。
改名時期については史料不足で不明としています。ただ、「幸隆」史料はもうひとつあるようで、それに拠れば天文九年から天文二十一年の間に絞れそうです。(それでも10年以上の幅がありますけど)

これが「幸隆」に変わるのを確認できるのは天文21年(1548)の「賀詞」です。(参考:『武田氏研究』第33号所収「真田幸隆(幸綱)・新出史料の紹介」石川昌子)

「風林火山」(7): 橋場の日次記(ひなみき)