日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

篤姫 第8回「お姫様教育」

幾島は薩摩へ行った?

「お姫様教育」の指南役として、幾島が鶴丸城に参上していました。わざわざ雷鳴を使う過剰演出までして「運命の出会い」を強調していましたが、幾島の薩摩下向は創作ではないでしょうか。
不勉強なので情報量が少ないのではありますが、篤姫と幾島の接点は、篤姫の入輿が決定して、幾島が京都より江戸に下向する安政三年(1856)までしか遡れません。
また篤姫の鶴丸城入りから江戸に向けて出発するまでの期間は、嘉永六年(1853)6月5日から同8月21日と、僅か二ヶ月半ばかり。しかも島津斉彬の鹿児島到着は6月22日で、京都より幾島を伴ったとすれば*1二ヶ月足らずとなります。鹿児島出立は急遽決まったものではなく、斉彬が当初計画していたとおりですから、このような短期間で「お姫様教育」とやらを考えていたとは考えにくいです。

それまでの幾島

元は近衛忠煕室の郁姫付き老女。その頃の名は藤田という。
郁姫は島津斉宣の娘で、島津斉興の養女。島津斉彬からすれば叔母であり義姉にあたります。幾島はその郁姫に島津家より従ってきた女中で、郁姫の死後出家(得浄院と号す)していたところを呼び戻され、還俗して幾島を名乗り、篤姫付き老女として再登場することになったそうです。近衛忠煕付き老女のように振る舞っていたのは、これまたドラマ上の虚構ということでしょう。

幾島と「こぶ」

幾島は、江戸城大奥では御台所付きの御年寄となり、「つぼね」の職名が与えられました。
女傑であったつぼねは「こぶ」と呼ばれて恐れられていたとか。この「こぶ」の話は結構有名なようで、ちまたでは幾島役の松坂慶子に瘤がない、と話題になっているようですが、もしかすると宮崎あおいちゃんが幾島の厳しい教育にぶち切れてぶん殴ってしまって瘤が・・・なんて超展開が待っているかも?

*1:そういえば幾島だけ先に到着したような格好になっていましたが、斉彬はどこで油売ってんだ?(笑)