日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第46回「土佐二十万石」

土佐の知行高

一般的に土佐20万石と言われるのに対し、拝領当初は9万8千石だったのではないか?とも言われています。
この問題は1年前に囓ったっきり、新たな情報も得ておらず、まだスッキリしないままではありますが、一応現時点での見解をまとめると・・・

長宗我部氏時代の検地では9万8千石が打ち出されたが、関ヶ原時点では20万石の軍役が科されていることから、実高は20万石あり、或いは20万石へと高直しされていた可能性がある。長宗我部氏時代に高直しが無かったとしても、土佐は実高20万石として認知されており、それゆえ山内氏時代に20万2千6百石を公儀に認可されたのでしょう。


そもそもこの問題の根底には、20万石とすると掛川5万9千石からの加増率が、戦功に比べて高めとなるため、それへの疑念にあるのですが、加増率を物差しにすること自体に問題があります。例えば同じ加増高でも、加増率は元が低い方が高くなるわけで、それによる比較にどれほどの意味があるだろう。比較するのであればせめて加増高で計るべき。まあ、それにしたところで、給金のように微調整の利くものではないから、多少の不公平感は出るものかと。

井伊直政と鉄砲疵

関ヶ原の戦いで、島津勢を追撃した際に鉄砲で撃たれて負傷した井伊直政。この頃はもうだいぶ快復していたんでしょうか?

井伊直政と浦戸一揆

井伊直政に責任を押し付けた、と何だか勘違いしている人も多いようですが、実際に浦戸一揆の制圧を指示したのは井伊直政。今まで数々の美化を行ってきた大河ドラマですから、勘違いするのも無理もないことではありますけどね。まあ、狼少年みたいなもんですか。
さて、井伊直政は家臣の鈴木平兵衛・松井武大夫らを浦戸城接収のため派遣。慶長5年(1600)11月17日に大坂を出航、翌々日には浦戸に到着している。
が、ご存じのように長宗我部家臣団の反発により接収は難航。特に一領具足を中心とする過激派は浦戸城に籠もって抵抗を示したため、それに批判的な家老衆*1が制圧に乗り出し、それが12月1日のこと。12月4日には片が付き、翌日には浦戸城の接収が完了。そしてようやく12月11日に山内康豊が浦戸城を受け取ったとみられます。
山内康豊が、1ヶ月以上も早い10月17日に大坂を出立したり*2、鉄砲で狙撃されたりしましたが、いずれも創作。山内康豊が大坂を発ったのは鈴木平兵衛らと同時期とみられ、しかも真っ直ぐ浦戸には向かわず、まず土佐の最東部にあたる甲浦に入り、当地の人々を引見し、慰撫している。その後、浦戸を迂回して西部へ回り、浦戸城接収を待ちつつ、土佐入国の地均しを開始。
つまり、浦戸城接収に関して山内家は埒外にありました。これは山内家が汚れ仕事を嫌ったとか、そのようなことではなく、「徳川家が接収し、それを山内家に与える」というまさに目に見える形での御恩により、山内家が完全に徳川家に従ったことを示す行為だとみられます。ただ寡聞にして、関ヶ原合戦の論功行賞において他に同様の事例は知らないのではありますが。
それから、抵抗が起きることは井伊直政にとっても「慮外」のことであったようです。

一豊の土佐入国

浦戸城受け取りを確認した一豊は、12月25日に大坂を発ち、翌年1月8日に浦戸城へ入城。康豊が戻ってきていて、船に同乗していましたが、もちろんその頃は土佐にあって一豊入国の下準備に勤しんでいたハズです。

大高坂山城(河中山城)

長宗我部氏も一度は居城移転を図りながら治水問題により廃棄された大高坂山城。その地に新城を築城し、それが高知城なわけですが、地名の変更には変遷があり、「大高坂山→河中山(こうちやま)→高智山→高知」、と変わっていったとのこと。
河中山への変更は、本丸・二の丸が完成し、一豊が入城した慶長八年(1603)のことだそうですが、残り少ないのでこういうまとめ方もアリでしょう。

六平太の仕官と狙撃された千代

いや、あの・・・なんていうか(^^;
仕官するのはいいですけど、重臣たちの一座に列席したりして、そんなに表に出ちゃあマズイだろ六平太! 陰にあるから成り立つ架空キャラが、表にまで出てきちゃったら何でもアリになっちゃうっしょ( ゚д゚)ポカーン
そして千代が狙撃されたシーンにビツクリ( ̄□ ̄;)!! ひさびさのサプライズですな。勿論創作です。実は銃弾は逸れたんだけど、偶然に貧血で倒れた、とかいうオチだったらどうしよう。

*1:彼らには他家への仕官の道があるため立場が異なる。

*2:そもそも土佐拝領の話が出たのは11月上旬とみられる。→功名が辻 第45回「三成死すとも」 - 日本史日誌