日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第43回「決戦へ」

いやー、一豊が軍兵を前に演説をぶったシーン、よかったッス。『功名が辻』で初めてグッと来ましたよ。こういうのが見たいんです。これまで役者の演技どうこう以前に、演出がネックになっていましたけど、やればデキるんじゃないですか! 残り少ない放送も期待してみようと思います。
それにしても、ここに来ての関ヶ原要員の増え方はちょっとどうですかね。イチイチ名前を挙げるのも面倒(x_x)なので紹介は割愛します。終盤にきての新キャラ大量投入は、視聴者を混乱させるし、脱落者が増える要因になると思うんですけど・・・。それに登場のさせ方が唐突すぎたり、登場させる必要性が低かったりと、相変わらず駒の使い方は上手くありませんね。

一豊は小山評定の前に「内府ちかひの条々」を入手できたのか?

前回、田中孫作が運んで来た笠の緒の密書(千代の手紙)と内府ちかひの条々(豊臣三奉行の家康弾劾状)を、小山評定の前に家康へ差し出しました。それによって家康は上方の情勢を知った、ということになっておりました。これはまあ従来からの一般的な解釈です。
ですが近年、小山評定の時点において家康が上方情勢を把握しきれていなかった可能性を笠谷和比古氏が指摘されております。慶長五年(1600)7月25日の小山評定の後に出された最上義光宛の家康書状や、秋田実季宛の榊原康政書状の内容では、上方の反乱は石田三成大谷吉継による小規模なもので、豊臣三奉行はこれに加担していないという認識を示しているそうです。ただ、これはもちろん本能寺の変直後に秀吉が行ったような多数派工作のための情報操作、という可能性もあるでしょう。しかし、小山評定から4日後の7月29日付の、既に西上の途についた黒田長政宛書状で、豊臣三奉行の三成加担を知ったので相談したかったがそれが叶わない、という家康の動揺ぶりを伝えています。
そうなると田中孫作が運んで来た書状は「内府ちかひの条々」ではなかった、ということになる。ちなみに山内家史料の『一豊公記』所収「御家伝并御武功記」によれば、増田長盛長束正家連署による勧誘状だったということですが、それにしたところで豊臣三奉行の加担は明らか。ということは、田中孫作の到着は数日後であったのを前倒しにしているか。はたまた一豊の差し出した書状に対して家康が信を置かなかったか・・・それはないと思いたい(;^_^A

小山評定での発言

家康に従うにあたって、居城と兵糧をそっくり提供することを申し出る一豊。堀尾忠氏のアイデアを出し抜いたものとするのは新井白石の『藩翰譜』。そういえば、一豊の妻の名馬購入譚も『藩翰譜』でしたね。一豊の著名な両エピソードの典拠がいずれも『藩翰譜』ということは、一豊の地味さと『藩翰譜』の影響力の大きさを物語っているでしょうか。
それはともかく、『藩翰譜』では出し抜かれた堀尾忠氏が一豊に対して、日頃の篤実さに似合わない行為だ、と言って笑ったということになっている。明るく体育会的なノリで、両者の親密な関係が伝わってくる良いエピソードです。
山内家と堀尾家はともに岩倉の織田伊勢守家の家老を務めた家柄で、山内一豊堀尾吉晴は長く秀吉麾下の同僚としてあり、またともに豊臣秀次の宿老を務め、さらに領国も隣同士とあっては、家族ぐるみの親密な関係が当然想定されるわけです*1。そして息子のいない一豊ですから、堀尾忠氏を息子のように可愛がっても不思議ではない。
そういうわけで『藩翰譜』の伝えるエピソードには説得力があるのですが、これまで堀尾忠氏を登場させてこなかった『功名が辻』では採用できようハズもなく。場の雰囲気に呑まれていた堀尾忠氏に代わって、一豊が発言する、という演出も悪くはないですけど、出し抜いたことへの後ろめたさを糊塗する意図がどうしても透けて見えてしまうのが難点。

軍監本多忠勝と先鋒隊井伊直政

清洲城井伊直政がいて、何故か江戸城本多忠勝がいる不思議。実際のところ本多忠勝は、急病の井伊直政のピンチヒッターとして軍監の役目を担い、東軍諸将に同道しています。井伊直政もほどなく快復し、ただちに徳川の先鋒隊として出陣しています。

江戸城に留まる家康

さて、家康が江戸城に戻ったのは小山評定より10日後の8月5日。それより9月1日までの1ヶ月近く滞留しています。ドラマでは随分余裕のご様子で、清洲の東軍諸将を試すと宣っておりましたが、状況からすれば家康にそれほどの余裕があったとは思われません。
まず、彼が行ったお手紙作戦です。現在、判っているだけでも100通以上の手紙をこの1ヶ月ほどの間に諸大名に送っています。石田三成に二大老・三奉行が加担するという大規模な挙兵が、家康にとって想定外のものであり、だからこそ諸大名に勧誘・繋ぎ止めのための書状を送った、と考えられましょう。
そして次に上杉対策があります。そもそもは上杉討伐の出陣だったのであり、こちらを疎かにすれば逆襲を喰らいかねず、そうなれば西上どころではなくなります。また、東北の親家康諸侯は家康の西上を望まず、西上を望む清洲の東軍諸将との間で家康は板挟みにあり、どちらにもいい顔をしておかねばならないのです。
そして何より、清洲の東軍諸将の向背への不安。笠谷和比古氏の主張するように小山評定の時点で、上方の状況を過小認識していたとすれば、その後に上方の状況が判明するに至って、それを知った諸将がどう動くのか不安を抱いたとしても不思議ではありません。
そういったこともあって、東軍諸将を挑発して軍事行動を起こさせたとする一般的な見解は、ちょっと考えにくいのではないか、と疑いの目を向けているのですが、どうなんでしょうか。

岐阜城攻め

ちょっと、ちょっ(以下略)!
何故にカットするかなぁ。プロ野球に例えれば、関ヶ原合戦日本シリーズの大舞台。しかし一豊選手は先発オーダーより漏れてそのまま出場機会がありませんでした。それに対して、米野の戦い及び岐阜城攻めはレギュラーシーズンの試合ですが、一豊選手は主力として活躍しました。
当然、関ヶ原合戦をカットしてでもこっちをやるべきだ!ってのは極論ですけど、せめてこちらももう少し取り上げて欲しかった。それもこれも狂言回しに仕立てられているせいなんですよね。一豊タン(´・ω・)カワイソス
さて、合戦の経緯について簡単に触れておきますと、東軍諸将はまず2チームに分かれて清洲城を発し、一豊は池田輝政チームに所属しています。他に浅野幸長・堀尾忠氏・中村一栄・有馬豊氏らがいます。ちなみにこのメンツは関ヶ原合戦において、いずれも南宮山の毛利勢に備えて垂井周辺に布陣しており、清洲城出陣時のチーム分けが関ヶ原合戦まで活きていたようですね。
池田輝政チームは岐阜城まで最短距離のルートを進軍し、木曽川を渡河。対岸に布陣していた織田秀信の軍勢を蹴散らし(米野の戦い)、一気に岐阜城下に迫りました。で、実は木曽川を渡河したら、もう一方の福島正則チームが遠回りをしているので、彼らの合流を待つという約束があったそうなんですが、その約束を破っちまったもんですから福島正則大激怒。岐阜城下に駆けつけて、すわ同士討ちか!という状況になりましたが、ここで一豊が池田輝政を説いて、岐阜城攻めの先陣を福島正則に譲らせたので一件落着となったそうです。
ドラマではまだまだ若々しい一豊も、既に50代半ば。東軍諸将の最年長で、同世代も田中吉政ぐらいですから、いわゆる長老的な立場にあって、何かと言うと衝突しがちな諸将の関係を取り持っていたのではないでしょうか。

家康急発進!

8月27日に岐阜城攻略の一報を受け取った家康は、3日後の9月1日に早くも江戸城を発っています。しかも2日も予定を繰り上げたということで、家康の慌てぶりが浮かびます。
そして9月11日には清洲城に到着するのですが、ここで徳川秀忠軍が遅れていることを知ってまた大慌て。井伊直政本多忠勝藤堂高虎まで呼び寄せて今後の作戦を相談しています。まあ、秀忠が遅参したというより、家康が急ぎすぎたという方が正しいでしょう。
とはいえ、家康にも急がなければならない事情があるわけで・・・それは東軍諸将の快進撃によるものです。家康としては、これで彼らの向背が明らかとなったわけで喜ばしいことであるわけですが、もし彼らがそのまま進撃を続け、家康不在のまま西軍を打倒してしまったら、家康の立場は無くなってしまいます。それまで築き上げてきた政治的影響力といったものは急降下してしまうでしょう。反対に、東軍諸将が西軍の反撃を受けて壊滅してしまった場合は最悪です。味方の戦力が低下するというだけでなく、後詰めに失敗した家康を頼みにならぬと見限る諸侯が続出する恐れがあります。そんなわけで、家康は是が非にでも急がなければならなかったのです。

*1:近すぎるがゆえに対立に至る場合もありますが、両者にそのような話は伝わっていないようです。