功名が辻 第39回「秀吉死す」
んん、なんといいましょうか・・・過剰じゃないすか?老醜の演出が(^^;
秀吉のお漏らしシーンを二度もやらなくたってねぇ。柄本明の演技が上手いのも考えものですよ。><
そしてトドメは家康の褌一丁姿。たるんだお腹を露出しなくても・・・どうせなら若いオナゴの・・・エッ?あ、いやいや、何でもありませぬ(^◇^;)
→狂言回しとしての夫婦――大河ドラマ・功名が辻 - 虚虚実実――ウルトラバイバル
「狂言回し」という表現は、そのものずばりで、まさに納得、目から鱗です。
長らく的確な言葉が思い浮かばずもやもやしていたのですが、お陰でスッキリいたしました。
唐沢利家再び
出番すくなっ! お陰であんまり違和感を感じなかったともいえますけど(苦笑)。ちょっとあんまりな。
それに公式サイトのあらすじには、
とあるにも関わらず、ドラマにはそんなシーンは全く無し。もう!思わせぶりなことせんといて(○`ε´○)
側室を勧める千代
基になるエピソードなどはないと思われます。その上で、可能性としての面からこの話を考えてみました。
まず、捨て子を養子にするくらいですから、その時点で見性院は実子を諦めていたと見るべきでしょう。その当時の天正十五年(1587)には見性院は31歳*1。現代であればまだまだこれから、と言ったところですが、当時はそろそろな年齢で、しかも一人娘の与禰を出産してから7年が経過。側室を勧めるタイミングとしてはここが一番可能性が高いのではないでしょうか。だけど一豊にはその気がなく・・・それで捨て子を養子にすることにした、と。
これがドラマのように、捨て子を養子にして、その後出家させたので、側室を勧めることにしました、ってんじゃ幾ら何でもご無沙汰(たぶん)な一豊が面食らうのも当たり前(笑)。無茶言うなよかあちゃん。
それにしても、一豊ほど性欲の臭いを感じさせない戦国武将も珍しい。見性院以外に女性の影は見えないし、見性院とも子供を儲けたとはいえ1人だけ。男色の方も聞かない。史料に残っていないだけ? いや、もしそうなら相当上手く隠したと思うよ(笑)。
掛川下向
ひさびさに領国掛川を訪れたという一豊。ひさびさも何もドラマでは初入国ではないかしらん? 掛川の人々はやきもきしていたことでしょう。
小田原征伐後の初入国や、文禄二年(1593)に熱海から湯治帰りの秀次の接待したことくらいは、軽く触れるくらいあってもよさそうなのにぃ〜。
国松と於美
山内康豊の妾として山内忠義(国松)を産みながら、生母として扱われることはなかったという妙玖院(千代・ドラマでは於美)。
ドラマでは妾でなく妻として嫁いだ*2お陰で、生母として扱われているようでした。よかったネ!
淀殿の帰属意識
織田家でなく、浅井家のことも思い出してあげて下さい!
ま、もちろん創作ではありましょうが、そもそもお市の方ならともかく、その娘がどうして織田家に帰属意識を求めているのか理解しがたい。創作にしてもあんまり良い設定ではありませんね。
当然のことながら、実父浅井長政の菩提を弔うため、京都に養源院を建立するなど、実際には浅井家への帰属意識が強かったことでしょう。あそこは「浅井の天下」を囁いてくれないと、視聴者にも忘れさられた感のある浅井長政が可哀想(;_;)