日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第38回「関白切腹」

嗚呼、なかなか追いつけませんねぇ(-"-;)
さて、先週・今週と「湘南宗化」「湘南和尚」で検索されて来られる方が多くてビックリ。いやはや凄いぞ大河ドラマ。湘南和尚がこれだけ注目されるなんて他では考えられませんものねぇ。
そしてもうひとり豊臣秀次も。時代考証小和田哲男氏は著書『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)』の「おわりに」で、

私は、秀次は犠牲者だったとみている。子どものころは、叔父秀吉のために、宮部継潤や三好康長の養子に出され、秀吉の養子戦略として政治的に利用され、また、長じては、秀吉の養子となって関白にまでなったが、秀吉に実子秀頼が生まれたため、その結果お払い箱となって、高野山に逐われ、二十八歳の若さで切腹させられた。

と述べていてます。文化人で器用に立ち回れない秀次像は小和田氏の影響によると言えるでしょうね。

聚楽第へ派遣される

豊臣秀次を伏見へ出頭させるための迎えとして派遣された山内一豊。『甫庵太閤記』によれば、他に宮部継潤・前田玄以中村一氏堀尾吉晴の5人で赴いたということで、どうせなら中村・堀尾両人くらいは出してくれたっていいのに・・・ドラマでは一豊と新一郎、他の2人も山内家家臣だと思われ。

秀次切腹

すげーあっさりしててビックリ( ̄□ ̄;)!!
不破万作切腹(秀次が介錯した)はナレーションすらなかった・・・彼を登場させたのは単なる賑やかしのためだったのか。

前野父子切腹

捕らえられた父子は、ともに中村一氏のもとに預かりの身となり、後に自害している。ゆえに前野長康が一豊と中村一氏堀尾吉晴の3人と面会していたシーンは、中村一氏の屋敷なのでしょう。一豊と堀尾は連れだって訪問したというところか。で、別に切腹に立ち会うわけでもなく・・・謎だ。そして同じお預かりでも座敷牢に幽閉されている前野景定カワイソス(´・ω・)

その他の処罰者

前野父子以外は触れてもらえませんでしたので、他の処罰者に軽く触れておきます。
まず木村常陸介が斬首。斬首ということは、武士としての最期を迎えることが出来なかったということ。彼ひとりがこの最も重い処罰を受けているのは、彼が秀次付きで最も大身ゆえだろうか、それとも彼に反秀吉の行動があったのであろうか。何にせよ、彼の登場も何だかひどく虚しいものになってしまったのが残念。
それから大名クラスでは、大和小泉4万8千石の羽田正親、伊勢松坂2万5千石の服部一忠*1、伊勢桑名1万5千石の一柳可遊、遠江横須賀3万石の渡瀬繁詮といったところが、前野長康と同様に諸大名の預かりとなって、後に切腹している。
いずれも小大名ばかりであり、大大名には及んでいない。毛利や伊達・細川といった有力大名が処罰を回避するために云々、といった話はあるが、結果として咎めがなかったのは、秀吉サイドとしてもあまり事件を大きくしたくない、豊臣家レベルで抑えておきたいという思惑があったんではなかろうか。

処刑された秀次妻子

『太閤さま軍記のうち』に処刑された妻妾として30名が上げられている。が、還暦越えの女性や正室の連れ子なども含まれており、30人全てが妻妾というわけではなさそう。

事件後の一豊

秀次切腹の同日に秀次蔵入地から8千石を加増されている。前年に1千石を加増されていたので、これで〆て合わせて5万9千石と相成りました。
タイミングからいって事件の褒賞でしょう。史料からは秀吉サイドとしての動きしか見えないようです。そもそも秀吉の命令によって秀次を監督するために付けられた宿老ですから当然の動きではありますが、監督責任はどうなってるの?とも思いますね(^^;

山内康豊の長男

文禄元年(1592)に生まれていた国松(後の二代土佐藩主・山内忠義)。その存在にようやく触れてもらえました(笑)。
まだ2歳、とされていましたが、秀次失脚事件の文禄四年(1595)であれば4歳(数え年)。一方、9歳とされた拾は、生年不詳なれど天正十五年(1587)に拾われたといい、その年に生まれたとすれば9歳でビンゴ。

拾出家

慶長元年(1596)に妙心寺の南化元興のもとに入門したといいます。
豊臣家の後継者問題と、山内家の後継者問題をリンクさせて描いたのはなかなか面白い。まあ、豊臣家と山内家じゃ状況は違うけどね。捨て子を養子にしていたというのは特異な事例だし。だからこそ、一豊の落胤という説も生まれたのだと思う。

*1:桶狭間の戦いで、今川義元に一番槍を付けたあの服部小平太。