日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第21回「開運の馬」

今夜は遂にあの伝説の、そう、あの話です。
私の見解は以下↓にまとめてあります。


そして今回の話は天正八年(1580)11月よりスタート。
それにしても、黄金十枚を差し出された一豊が最初は怒る展開が新しい。

唐突に出てきた加藤清正

しかも何のために出てきたのやら?
秀吉の正室・寧々(北政所)の遠縁とのナレーションが入りました。秀吉の母・大政所の縁者というのは聞いた覚えがありますけど、北政所の縁者というのは初耳。

名馬役の馬

龍のような馬? 馬を見る目は皆無なので、そんなに凄い馬かどうか分かりかねますが、他の馬より良い馬を使っていたんでしょうか。馬通の方の評価が知りたいところ。

京都馬揃え

天正九年(1581)2月28日、正親町天皇の叡覧を仰いだ一代イベント。奉行を務めた明智光秀以下、柴田勝家丹羽長秀らの部将、織田信忠ら織田連枝衆、さらには公家衆などが参加してパレードが行われました。
残念ながら、秀吉は中国出陣のため参加しておらず。当然のことながら一豊もそれに従っていたとみるべきで、馬揃え参加の可能性は低い。

あれ?もう本能寺の変の三ヶ月前?

ということは天正十年(1582)の2月末〜3月頭といったところですか? 随分すっとばしたなぁ。
その間に秀吉による鳥取城攻めが、天正九年(1581)6月〜10月にあり、天正十年(1582)3月15日には姫路を発して備中攻略へと向かう。最後の出陣のシーンは、この備中侵攻に一応合わせようとしたものだろうか。
ちなみに2月から信忠勢が武田領に侵攻し、3月11日には武田勝頼が自害しています。