日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第20回「迷うが人」

今回は、竹中半兵衛死去の翌月、天正七年(1579)7月よりスタートし、佐久間信盛ら追放の天正八年(1580)8月までです。ちなみに天正八年(1580)は与禰姫が生まれたとされる年。
それにしても、今回の信長はちょいとエキセントリックかつバイオレンスな風味が強すぎますなぁ。

松寿丸を匿う

何故か山内家に預けられている松寿丸*1。そもそも大事な人質を家臣に預けるなんていう設定がどうかしている。
ともかく、『黒田家譜』などによると松寿丸の一件については以下のようになります。黒田官兵衛の人質として長浜城にあった嫡子松寿丸。父官兵衛が説得に赴いた先の有岡城荒木村重に捕らわれると、それを官兵衛の裏切りと早とちりした信長は秀吉に人質松寿丸の殺害を命じます。そこで竹中半兵衛がコッソリと自らの居城である菩提山城(岐阜県垂井町)に匿った、ということです。
今回の改変されたストーリーで最もおかしな点は、黒田官兵衛の消息が途絶えて8ヶ月も経つのに、羽柴家中の面々が今更あれこれと穿鑿したり、ようやく信長が人質殺害を命じたりしているところ。これは竹中半兵衛の死後に話を持ってきたがために生じた不具合といえましょう。またそれは一豊夫妻をこの一件に関わらせるために生じた、とも言えますが、それだけならば別に竹中半兵衛の生前でも半兵衛の頼みを受けて匿った、とでもすれば少なくとも時間軸の齟齬は生じなかったでしょうに。

突然の羽柴秀長登場

なんで今更・・・不自然過ぎる。今回出てくる必然性は皆無。これではまるで、秀長をこれまで登場させなかったことに対して抗議が殺到*2したので急遽登場させた、みたいな感じではないか。
登場させるのならばもっと早く、そうでなければ最後まで登場させないまま押し通して欲しかった。まあでも出てきてしまったものは仕方ないですから、せめて今後は準レギュラー化してもらいたい。

小寺政職

羽柴秀長の発言中に登場。播磨御着城主で黒田官兵衛の主君。荒木村重と時同じくして毛利方につき、やはり荒木村重とともに没落した御仁。その没落によって、黒田官兵衛は旧主から賜った「小寺」の名字を捨てて本来の「黒田」を名乗ったということです。

荒木村重脱出と有岡城落城

荒木村重有岡城を密かに抜け出したのは天正七年(1579)9月2日。『信長公記』によれば1人ではなく、5・6人の供を連れてということである。普通に考えれば幾ら何でも1人というのは無謀すぎる。もちろん5・6人の供を連れていても、向かった先の尼崎城まではだいぶ距離があるし、そもそも有岡城は織田勢の包囲を受けていたわけで、脱出行は困難を極めたことでしょう。
さて、荒木村重有岡城を抜け出したこと自体にはそれほど問題はない。そもそも荒木勢単独では勝ち目はさらさら無く、毛利勢の後詰めがどうしても必要な戦い。その後詰めを督促すべく内陸の有岡城から海沿いの尼崎城へ移ったのでしょう。しかし城主を欠いた有岡城は11月19日、荒木村重を説得するという条件のもと降伏。重臣荒木久左衛門らは妻子を人質にして尼崎城へ赴きますが、村重は説得に同意せず、あろうことか重臣らまで翻意。そのため人質らは尼崎城外で122人が磔にされ、その他500人が焼き殺された。さらに荒木氏の一族は六条河原で大量処刑、とまさに地獄絵図が展開されたという。
このように妻子・一族を見殺しにした荒木村重たちですが、その後も抵抗しており、有岡城落城で全ての片が付いたわけではありません。とはいえ、その後はなすすべなく尼崎城を捨てて花隈城へと逃亡し、翌天正八年(1580)3月にはさらに花隈城も脱出して毛利氏のもとへ。花隈城自体は7月まで持ちこたえたらしい。

黒田官兵衛救出

なぜか有岡城に乗り込んだ山内一豊が救出。もちろん一豊にそのような逸話はなく、そもそも有岡城包囲軍の中に羽柴勢は含まれていない。
黒田家譜』などによれば、栗山善助らの黒田家家臣が有岡城下に潜入し、11月19日に寄せ手が落城させた隙に牢獄より官兵衛を救出したということでありますが、有岡城は開城したのであるからだいぶ脚色されているでしょう。ただ黒田家家臣としては、荒木方がどさくさに紛れて抹殺するとか、疑ったままの織田方が早まってしまう、なんてことも想定して、一足先に救出するべく奮闘しても不思議ではないか。

三木の干殺し

長らく抵抗していた三木城の別所長治が降伏したのは年明けの天正八年(1580)1月15日。前年9月に最後の反撃を行い、羽柴方の部将谷衛好を討ち取るも結局は失敗に終わり、その後は両軍動きはなかったが、1月6日・1月11日と羽柴勢が三木城の砦を立て続けに占領し、本丸を残すのみとなったところで、羽柴勢に従っていた別所重宗(長治の叔父)が降伏を勧告。それを受け入れて降伏となり、1月17日に別所長治らが自害して城兵は助命されて城を出た。
一豊が開城の使者となった*3のは、これまでどおり単なるお約束。三木城攻めにおける一豊の軍功としては、天正六年(1578)8月15日に三木城から出撃してきた別所勢を加古川で迎え撃ち、多くの首をとった、ということが『寛政重修諸家譜』にみえるくらいで、具体的なことはハッキリとしないようです。

一豊が千三百石に加増?

創作のようですね。前々回に七百石を賜りましたが*4、その次の加増として史料にみえるのは本能寺の変後のことなので、もうちょっと先です。

林通勝・佐久間信盛の追放

宿敵石山本願寺との和睦が成立し、その退去が完了した直後の天正八年(1580)8月の出来事。
よりドラマチックに見せるため、安土城に集められた重臣たちの前で宣告しておりましたが、『信長公記』によれば*5、一編の折檻状と楠長韻(右筆)・松井友閑(堺代官)・中野又兵衛(弓衆)の三名が遣わされたのみ、という非常にドライな追放劇でした。この時期の重臣たちは西へ東へ大忙しなので、全員を集めるのはなかなか難しいと思われます。
それにしてもこの突然のリストラはやはり不可解さが残ります。佐久間信盛・信栄父子に関してはまだ分からぬこともない。この直前に受け取った石山本願寺の伽藍が失火*6で灰燼に帰し、石山本願寺を丸ごと接収しようという目論見から和睦という手段を採ったにも関わらず、その意味が全く失われていたからです。折檻状で昔のことやいちいち細かいことまで取り上げているのも、それだけ怒りが大きかったのでしょう。
ただ、林秀貞(通勝)・安藤守就・丹羽氏勝らのことはさっぱり分からない。『信長公記』には先年の信長苦境の際に野心を含んでいたから、と簡単に記されているのみ。一般的には、3人それぞれ別の事件が理由であろうとされている。つまり林は織田信行擁立を、安藤は武田信玄との内通疑惑を、丹羽についてはハッキリしないが信長の尾張統一前の敵対行動か。
ただ、彼ら3人別々の理由とは限らないのではないだろうか。「先年」というのがキーポイントになるかと思われますが、それはそれぞれ別の時期ではなく同時期を指す可能性もある。いやむしろそう捉えることの方が自然でしょう。つまり三者同時期に疑わしき動向があって、それで罰された、ということであれば非常にスッキリ筋が通る。別所・荒木・本願寺が立て続けに片付いた直後のことですから、それらへの与同を疑われたのではないだろうか。ただ、現状では裏付ける史料がないので、あくまで推測に過ぎません。
それからこの件に関して、信長の横暴といった面のみがクローズアップされておりますが、大名と老臣の対立という側面もあるのではないでしょうか。これは戦国時代ではよくみられる事象で、江戸時代でもみられますが、大名側からすれば目の上の瘤である老臣を排除したい、老臣側からすれば大名に権力を集中させたくない、この思惑の違いから起こり、たいていは血をみることになるのですが、信長は追放に留めているのですから、そんなに非道性を強調しなくても・・・などと思うのですがどうでしょう。

*1:後の黒田長政

*2:もちろん秀長の知名度から言えば、そんな事態は考えにくいですけど。

*3:ついでに今回は中村一氏堀尾吉晴もくっついて来ましたが。

*4:功名が辻 第18回「秀吉謀反」 - 日本史日誌

*5:佐久間信盛・信栄父子の場合のみしか分かりませんが。

*6:信長公記』によれば松明の火に風が吹き付けて燃え広がったという。一方で、教如らの和睦反対派の仕業とも言われます。