日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第13回「小谷落城」

今週の日曜日は出かけていて帰りが遅くなったので、久しぶりにナマでは見られず。
前回*1足利義昭が追放されたところで終わりましたが、その月末に改元があり、天正元年(1573)になっています。

朝倉氏滅亡

足利義昭追放の翌月の天正元年(1573)8月、信長は電光石火の早業であっという間に朝倉氏を滅亡に追い込みましたが、ドラマでも簡単なナレーションで済まされるという電光石火っぷり。端折るにも程があるでしょうに。
朝倉義景小谷城救援のため出陣してきたのですが、浅井・朝倉方の諸城は内応または落城、小谷城は孤立して織田方に完全包囲されているため救援がままならず、やむなく撤退を始めたところを織田軍が追撃して大打撃を与え、態勢を立て直す余裕を与えずそのまま一気に朝倉氏の本拠一乗谷へと進撃して朝倉氏を滅亡させたわけです。
で、その追撃戦が刀根坂の戦いと呼ばれる戦いであり、山内一豊が三段崎勘右衛門を討ち取ったとされる戦いなわけですが*2、元亀元年(1570)のこととして既に描いてしまっているので、当然同じエピソードを二度も使えるわけもなく、描写があっさりしたものになることはある程度予測出来てはいたんですけどねー。まさかあれほどどは(^^;
で、朝倉義景は朝倉一族の重鎮朝倉景鏡に裏切られて自害。嫡男も探し出されて殺されています。可哀想なのは浅井氏の万福丸だけじゃないゾー。

浅井氏滅亡

朝倉氏を滅亡させ、越前の仕置をとりあえず*3済ませた信長が虎御前山*4の本陣に帰陣したのは8月26日。翌8月27日には早速小谷城攻めに取り掛かり、秀吉が小丸を攻め落として浅井久政を自害に追い込んでいる。
信長がお市の方の身を案じて逡巡したとか、そのようなことは日程的なところからは伺い知ることはできない。
そして8月28日*5には浅井長政が自害して浅井氏は滅亡。
ちなみに、山内一豊は刀根坂の戦いで鏃が頬に刺さる大怪我を負ったとみられるので、小谷城攻めには何ら関与できなかったでしょう。

茶々

野口真緒ちゃんかわいいよ野口真緒ちゃん。
まさか今年も会えるとは。二年連続出演ってなかなか無いのでは? それにしても髪型のせいか、去年の大姫役のときとはまた違った印象。少し大人っぽくなったというか・・・子供の成長は早い。

万福丸磔刑

ドラマでは側室腹とされた万福丸万福丸お市の方の所生か否かについては、以前に言及しています*6。結局のところ、お市の方の輿入れ時期が諸説ある上に、判断が難しいところなので、どちらとも言い難い状況。
とりあえず、ドラマ通りに側室腹と仮定して、お腹を痛めた子でないにも関わらず、お市の方があれだけこだわったのはちょいと引っかかる。まあ、嫡母として養子にした可能性はあるよね、と好意的に解釈するも、朝倉氏に人質に出されていたという余計な設定のせいでパー。手元で育てられないじゃ意味無いじゃん。だいたい、いつ戻ってきたというのだろう。もう少し考えて演出して欲しいところ。
そして敢え無く磔にかけられた万福丸。今回のようにお市の方とともに城を出たとするよりも、別に城を抜けたとする方が理に叶うのではなかろうか。『信長公記』にも詳細までは分かりませんが、捕らえたとありますし。
それと、山内一豊は大怪我を負っているので、処刑にもやっぱり立ち会うことは無かったでしょう。ご安心(?)下さい。

唐国四百石

山内家史料の『一豊公紀』によると、浅井氏滅亡後に一豊は近江国唐国(滋賀県虎姫町)に400石を与えられたとのこと。刀根坂の戦いにおける恩賞でもありましょう。これが史料に見える最初の知行地。

一豊は秀吉の与力か直臣か

秀吉が浅井氏旧領の江北三郡を与えられたときに際し、山内一豊が秀吉の与力から直臣になったとするのは時代考証担当の小和田哲男氏の見解*7
ただ、それは特に根拠のある話ではなく、12万石と推定される新領国に見合うだけの家臣が足りず、そこで与力として信長から付けられていた部将たちが秀吉の直臣に横滑りしたのではないか、という推測です。
そもそも初めから秀吉の直臣*8という見解もあり、ハッキリしないところです。

羽柴名字と筑前

秀吉が木下から羽柴へと名字を改めた時期はハッキリしませんが、この年天正元年(1573)頃のことと見られています。ただ、信長公記では元亀三年(1572)に既に「羽柴秀吉」の名が見えます。
一方、秀吉が筑前守に任官されたのは二年後の天正三年(1575)。まあ、いっぺんに紹介した方が分かりやすいだろう、ってことなんでしょう。

薄濃の首

朝倉義景・浅井久政・浅井長政の頭蓋骨を漆で塗り固めて金色に彩色し、酒宴の席で披露したという天正二年(1574)元日のエピソードはかなり有名だと思われます。
しかし、今回のようにそれを杯がわりにして酒を飲んだとか、秀吉が率先して飲んだとか、明智光秀は拒んだとか、そのように描かれることは多いのですが、それらは俗説に過ぎず、宴席に置いて酒の肴にしたという『信長公記』の記事を脚色したもの。
まあそれでも現代人から見れば異様な出来事ですが、このときの酒宴は盛り上がったようです。感覚が違うのでしょうね。
ただ、現代でも他人が眉を顰めそうなことに平気で盛り上がれる人々、語弊があるかもしれませんが体育会系のノリって、ちょっとこれに近いものがあるような。

*1:功名が辻 第12回「信玄の影」 - 日本史日誌

*2:功名が辻 第8回「命懸けの功名」その2 - 日本史日誌

*3:とりあえず過ぎて越前支配は半年も保たず、混乱の末に一向一揆が支配することになってしまいました。

*4:小谷城の南正面、目と鼻の先にある小山。

*5:信長公記』に拠る。近年では9月1日が有力の模様ですが、勉強不足ゆえに詳細までは分からず。

*6:功名が辻 第8回「命懸けの功名」その2 - 日本史日誌

*7:山内一豊 負け組からの立身出世学 (PHP新書)』、『山内一豊のすべて

*8:織田信長から見れば陪臣。