日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第37回「平家最後の秘密」

後白河院よりお手紙が届きました

平家追討を賞したお手紙。
ということは、元暦二年(1185)4月3日の夜に義経の使者が京都に到着している*1ので、ドラマの時間軸ではそれ以降ということになりましょうかね。
それはさておき、録画されている方はこのお手紙をよく見て下さい。冒頭に「一ノ谷合戦」とありますね。次に日付を見て下さい。「寿永三年二月八日」とありますね。そう、この日は一ノ谷の戦いの翌日ですよ。
んん?!
私は崩し字も読めませんし、文書の形式とかもサッパリですが・・・これってホントに壇ノ浦の戦い後の内容か?凄く胡散臭いんですけど。詳しい方の解説希望。

頼朝はどうしても意地悪に描かれてしまうなあ

平氏討滅」の知らせが鎌倉に届いたのは元暦二年(1185)4月11日*2。父源義朝を弔う勝長寿院の柱立ての最中で、さしもの頼朝も言葉が出ず、感無量であったように窺えるのだが、そのシーンが無いので、冷血な政治家の面ばかりが強調される。
そしてこれまでと同じく三種の神器を政治の取引道具として見ているのですが、いささか過剰すぎやしないだろうか。ましてや「鎌倉にて我らの帝を擁立することさえ出来た」などというのは突拍子も無いこと。
三種の神器は朝廷へ返還するのは頼朝の意思でもあったと考えるのが妥当ではないか。いたずらに朝廷を刺激するより、ここで貸しを作っておくこと、そして鎌倉が朝廷を守護する存在であることをアピールすることの方が余程利口なやり方だろう。
だいたいドラマの解釈に根拠はなさそうだし、優等生義経と対立させるために、頼朝の意地悪路線の一要素として作り出されたものなのだろう。

自由任官問題再燃

自由任官の御家人23名に対し、墨俣以東に戻ってきたら本領を召し上げるなり斬罪に処すなりするゾ、という怒りの下し文を遣わしたというのは、『吾妻鏡』元暦二年(1185)4月15日条に見えます。この中には佐藤忠信が居たりするんですが・・・、あと有名どころでは小山朝政や八田知家なんかも。
この面々からワザと義経の名を抜かし、挙げ句は義経から伝えさせるなどという意地悪設定はドラマオリジナルでしょう。どうあっても頼朝を意地悪キャラにしたいようですが、素直に考えれば義経は自由任官ではなかった、或いは妥協なりが成立して問題が解決していた、ということになりましょう。

義経の京都凱旋

壇ノ浦の戦いから凱旋までを時系列でまとめると以下のようになります。史料は『吾妻鏡』。

  • 3月24日 壇ノ浦の戦い
  • 4月3日 義経の使者が京参着
  • 4月5日 勅使長門へ下向
  • 4月11日 義経の使者が鎌倉参着
  • 4月12日 頼朝が義経上洛を命ず
  • 4月20日 神器が摂津渡辺に到着(『玉葉』)
  • 4月24日 義経京都凱旋、神璽神鏡は内裏に
  • 4月26日 平宗盛平時忠ら入洛して義経の六条室町亭に入る


えーっと、これを見ると義経の上洛が異様に早いような気がするんですけど。義経長門発向がいつなのかは推測するしかないようですが、頼朝の命を待ってから出発したとは考えられない。勅使が到着してからでも微妙なところ。この辺が「自専の人」たる所以か。

六条堀川の屋敷を賜って?

何でいまごろ? じゃあ今まではどこに?
んー、ただ義経の館って『吾妻鏡』じゃ六条室町亭となってるし。それぞれの屋敷を持っていたのか、どちらかが誤りなのか。よく分からない。難しいな。

うつぼ結婚!

ってことは、もう出てこないんかな? 平泉まで付いてきそうな気がしていたのですが。

梶原景時の書状

吾妻鏡』元暦二年(1185)4月21日条に見えます。ドラマでは「京都に留まっていた」とされましたが、「鎮西より参着」とあります。
また「堂々たる戦ぶりではなかった」とか「逆櫓論争云々」などの記述は一切なく、ただ義経が「一身の功」を誇っているとし、編者の論評も自分勝手な振る舞いを非難するのみで、具体的なことへの言及はない。つまりは梶原景時の讒訴というものがかなり脚色されているということで、今回もその縛りから解放はされませんでした。景時さん残念。

自由任官問題について大江広元

したり顔で話しているのを見ると、どうにも白々しく感じてしまう。だって、彼も後に自由任官する*3んですもの。

それにしても梶原景季が

ここまで出番の多い作品っていうのも他に無いんじゃないか?

義経に従うことはならぬ

梶原景季が語った頼朝からの書状というのは、『吾妻鏡』元暦二年(1185)4月29日条が元ネタでしょう。義経に近い人物であった御家人田代信綱に遣わされたというもので、

志を関東に存すの輩は、廷尉に随うべからざるの由、内々相触るべしと。

と、随分きつい内容だったりしますが、既にこの時点で頼朝は義経を突き放したと見てもよいのだろうか?

建礼門院の出家

吾妻鏡』『吉記』によれば元暦二年(1185)5月1日と。

守貞親王建礼門院のもとにいるようだが

彼は七條坊門亭に入った*4というし、洛東吉田の辺に渡御した建礼門院とは別々になっています。一緒にいるのは演出上の措置でしょうね。
ちなみに守貞親王は上西門院(後白河院の同母姉)の養子となり、乳母である治部卿局(平知盛の妻)が引き続き養育に当たっています。

守貞親王を仏門に

確かに彼は出家しましたが・・・それは建暦二年(1212)のこと。既に三十路に入っていました。つまりは、人のいい義経女院さまに上手く言いくるめられた、そういう演出?!

結局のところすり替え設定って

なんだったの? 別にわざわざ挿し挟む必要があったのかどうか・・・何度考えても分からないんですけど。(^^;

*1:吾妻鏡』・『玉葉』元暦二年(1185)4月4日条。

*2:吾妻鏡』同日条

*3:大江広元/上杉和彦/人物叢書 - 日本史日誌

*4:吾妻鏡』元暦二年(1185)4月28日条。