日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第35回「決戦・壇ノ浦」

壇ノ浦の戦いってことで、中盤のヤマ場・・・のハズなんですけど、下手に小細工しすぎたせいか、やっぱり盛り上がりに欠けますなあ。
あれこれとオリジナル設定を組み込むより、素直に『平家物語』のストーリーを基本ベースにした方が良かったんではないですかね。なんといっても数百年も支持されてきた物語には、そう簡単に太刀打ちは出来ますまい。
まあ、かといって『平家物語』そのまんまというのも味気ないんですけど。その辺の匙加減こそが制作陣の腕の見せ所だと思いますが、今回は失敗でしょうね。取りあえずまだ終わっていないので、後半の帳尻に淡い期待を寄せることにでもしますか。

合戦前日に雨?

これって、『吾妻鏡』元暦二年(1185)3月21日条、すなわち合戦の3日前に雨のため壇ノ浦への出陣を延引したとの記事がネタ元か。ちなみに同記事には前回取り上げられた船所五郎の舟船献上の話が出てきます。なにゆえ雨天順延のみスライドさせられたのかの意味は不明。

先陣を願い出る梶原景時

平家物語』の「覚一本」など語り物系諸本に出てくるお話。読み本系諸本では、屋島の戦い前の逆櫓論争に吸収されてしまっているそうで、多分に虚構性が強い。
で、その『平家物語』では、義経が自ら先陣を務めると言い出して一触即発の大喧嘩となったところを三浦義澄らが仲裁するという筋書きだったはずだが、さすがに今まで強烈な自我を発露することなくきたタッキー義経ではこれが無茶なためか、三浦義澄を先陣に立てるウルトラC
しかし、周防に留まり動きの取れなかった三浦らが長門の壇ノ浦あたりの海に慣れているとは思えないのですが・・・。(^^;

水手・梶取を射る

「戦さの習いを知らぬ」だの「戦さの掟破り」だの卑怯な策扱いされること久しいですが、そもそも当時そのような捉えかたをされたのか?はたまた戦さの掟など存在したのか?
これは、いわゆる武士道の幻影、平和な社会の価値観に過ぎぬのではないだろうか。相手の裏をかく方策こそ知恵のある行為として賞賛されたのだという説もあります。詳しくは『戦場の精神史 ~武士道という幻影 (NHK出版)』を御参照のこと。

異父妹思いの義経

神器や帝・女院などよりとにかくゴマキ救出が最優先事項のようです。というか、戦況に影響出てるんですけど。

潮の流れの変化

戦況に大きな影響を与えたともそうでないとも言われますが、実際どうなのだろう。ドラマではあまりハッキリとした描き方をしませんでしたな。

源義経平知盛の一騎打ち

お互いの船が目と鼻の先に近寄るまで何ら動きのない双方。そしてお互い名乗り合う。なんじゃこりゃ。茶番すぎる(笑)。そして八艘飛びが意味不明すぎる。互角に渡り合っているから逃げる必要性を感じない。
それと、幼馴染み設定も結局あんまり活かしきれなかったなー。中途半端です。勿体ない。

対岸から弓を射る源範頼

和田義盛らが遠矢を射たというのは『平家物語』にのみ見える話だったけか。実際のところ、彼らはどこにいたのだろう。

入水

血の繋がらない守貞親王を抱いて入水したのでは、やっぱり悲劇性が感じられませんなー。むしろ巻き込まれた守貞親王のみが可哀相。
次々に海に飛び込んでいった女性陣の中で、平重衡室の大納言典侍局(輔子)のみが舟板に袴の裾を射付けられて動きが取れなくなっていましたが、飛び込んだ平知盛室の治部卿局も当然助かるんですよね? 守貞親王乳母の彼女が居なくなっては話にならないような。
ちなみに『吾妻鏡』ですと、二位尼安徳帝ではなく宝剣を、そして安徳帝は乳母である大納言典侍局が抱いて入水したとなっています。安徳帝は浮かんでこなかったのに、抱いていた大納言典侍局が助かってしまったのでは、物語として問題があったということでしょうか。それと二位尼が抱いて入水したほうが演出効果が高いといったこともあるのかもしれません。

平宗盛・清宗父子

情けないのはしょうがないけど、いくらなんでも影薄すぎ・・・。全部平知盛に持ってかれちゃった。

見るべきほどのことは全て見た

諸行無常観の詰まったセリフだと思うのですが、平家の悲劇性が中途半端なのでどうにもこのセリフも中途半端な感が否めない。