日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第31回「飛べ屋島へ」

後白河院の意向は

義経の追討使派遣にあったのか、それとも引き留めにあったのか。『玉葉』元暦二年(1185)2月16日の伝聞記事によれば、院近臣高階泰経が使者として渡辺にいた義経のもとに使わされ、発向を制止しようとしている。となると後白河院義経の追討使派遣を承認していなかったのか。あるいは気が変わったのか。
それどころか頼朝の命令ではなく義経の独断による出陣という見解もあるよう*1だし、何ともハッキリスッキリしないところである。

瀬戸内を挟んで屋島の対岸にある摂津国渡辺

って、おい! 大雑把すぎるぞぃ*2

渡辺学

って、だれ?

摂津から屋島へは1日、阿波へは3日

喜三太が渡辺党の船乗りから聞いたという話。阿波へは通常3日かかるというのは、『吾妻鏡』元暦二年(1185)2月18日の記事*3がネタ元だろう。ただ、阿波が3日なのに讃岐屋島が1日って・・・地図見る限りじゃ、とてもそうは思えないんですけど。
讃岐行きはとても楽な航路なのか。はたまた、海に詳しくない喜三太が船乗りたちに適当なことを教えられたという設定なのか。

近藤親家と桜庭良遠

阿波住人の両者の名が出てきました。たぶん阿波に着いてからはスルーされるか、ナレーションで済まされるんでしょう。

逆櫓論争

いい子ちゃん路線だった義経が、いきなり頑固で強硬な猪武者になっちゃったんですけど。それまでも多少頑迷な面もありましたが、ストーリーから考えると唐突の感は拭えないかと。一旦は外された追討使に再起用されたので気負っているのだ、ということなんでしょうか。
さてこの逆櫓論争、いかにも〜なエピソードで、『平家物語』の読み本系諸本では仲裁役に三浦義澄・和田義盛ら周防・豊後に居るはずの面々が登場すること、語り物諸本では三浦義澄・和田義盛らの仲裁が壇ノ浦の戦い前へと分割されていて、虚構性が強いことが指摘されています。

佐藤継信の出番が

多い。来週で退場のようですのでそれに向けてアピールの模様。

源氏の白旗が海の彼方へ?

相変わらずワケ分からん、視聴者が想像力を働かせなければいけない演出がまたしても。
とりあえず、ネタ元と思われる記事は『吾妻鏡』元暦二年(1185)2月19日条と『玉葉』元暦二年(1185)2月20日条にありますが、こちらは摂津の住吉大社で鏑矢が西の方向へ飛んでいったというお話で、吉兆として捉えられたようです。だからここも吉兆を見たという演出と考えるべきなんでしょう。

梶原景季

親父ではなく義経に従う景季。いったい彼に何をさせたいんだー!?

*1:義経とその時代/大三輪龍彦、関幸彦、福田豊彦/山川出版社 - 日本史日誌

*2:地理感覚が分からない人は地図で確認してネ♪

*3:通常3日かかる航路が強風のお陰で6時間ばかりで到着したという。