日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第30回「忍び寄る魔の手」

んー、相変わらずグダグダな感じなんですけど、後白河院義経にちょっかいを出す場面は面白うございました。平幹二朗氏が活き活きと輝いてますよ。

奥方河越重頼息女の扱い

何かもー凄いよそよそしい関係なんですけど・・・。このままだとこりゃ平泉まで連れて行ってはもらえそうにありませんな。代わりにうつぼが行くことになりそうな悪寒。

叙爵(従五位下叙位)

検非違使・左衛門尉任官の翌月、元暦元年(1184)9月18日のこと。検非違使が叙爵した場合、普通は官を辞すのですが、そのまま留任を許されることを叙留といいます。これは名誉なことであったらしいです。
ドラマでは鎌倉へお伺いを立てていましたが、これは創作かな。たぶん。受けるまで随分長い期間あったような描き方をされましたが、河越重頼息女の上洛は9月14日なので、それから4日しか経っていませんしね。
それから同日、大江広元因幡守に任じられています。『吾妻鏡』元暦元年(1184)8月20日条に受領任官を申請したとの記述があり、このとき一緒に義経叙爵についても申請した可能性もあるんじゃないだろうか。どうなんでしょう?

某寺に義経を密かに呼び出す後白河院

これも創作っしょ。どこの寺かいつのことかハッキリさせていませんし。
それはともかく、後白河院義経を籠絡するべく語っていた「院自身も肉親の愛の薄い境遇であったこと」は、そう言われれば確かにそうだったかもなー、と妙に納得。即位までは影の薄い皇子だったもんね。

公文所問注所設置

二階堂行政登場。ちょい役キタね、これ。『吾妻鏡』では所司はなく、寄人のひとりですが。
さて、公文所は元暦元年(1184)10月6日に吉書始めを行っていますが、その前の8月には建物が新造され、上棟式が行われいます。ドラマのような任命があったとすればもう少し前の話ってことになるかも。
一方の問注所は10月20日に設置。所属させた平盛時は鎌倉中期に活躍した同名の得宗被官とは別人。

清水義高の供養塔と法要

これも聞いたことないけど・・・元ネタあるのかな? とりあえず野口真緒ちゃんが可愛い。

院と内裏の昇殿を許される

破格の栄達、ってほどでもないと思うが、2ヶ月ばかりの短期間で次々に栄典を授けられる様は世間の注目を浴びてもおかしくないですね。

再び平家追討使に

吾妻鏡』によれば、源範頼から苦しい状況を記した書状が元暦二年(1185)1月6日に届いています。それを受けて、範頼を九州に、義経を四国に派遣する旨を書き送ったとあります。この時点で義経の追討使任命が決まっていたのかも。
さらに『吉記』によれば、1月8日に記主の吉田経房が院近臣高階泰経から義経の四国出陣についての是非を問われたとのこと。そうなると前年末に頼朝はこの方針を決定して、後白河院に奏上したのかもしれない。