日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第29回「母の遺言」その3


ここまでのところ、自由任官問題について踏み込んで言及されている方は見当たらず。かくいう私も踏み込みきれてはいないのですが、だからこそ気になるってもんだったりします。

義経が元暦元年の国司推挙に漏れたのは何故?

夜盗虫の朝寝坊』さんの興味深い問いかけ。

義経が何の官職にも就かないほうがおかしいよな。国守への推挙は恩賞じゃないのかも知らんけど、蒲の兄ちゃん範頼が三河守になってるので、バランスを考えたら義経も国守になっていいはず。なぜ頼朝は推挙しなかったのだろう。

同時代の人々もそう思ったのかもしれませんね。そしてそれが判官贔屓への端緒となった、と。
さて、この問題については『徒然独白 - 手鞠のつぶやき』さんが言及されております。

この時、頼朝が義経をなぜ推挙しなかったのかという理由は、実際の所、どうもはっきりとはせず、義経の台頭を恐れたとか、梶原景時の讒言があったなどの推測が幅を利かせていますが、その前に少し考えてみる必要がありそうなのが、当時の頼朝の地位が、いったい、どれほどのものであったのか…ということ。
鎌倉殿と呼ばれ、関東の武家の頂点に立っているとはいえ、それも並み居る御家人らの担ぐただの神輿にすぎない身の上とすれば…。一条能保については、朝廷との折衝役として、どうしても早急な格上げが必要との考えから、やむを得なかったとして、その上、範頼と義経の二人とも推挙したのでは、頼朝の身内贔屓と、御家人間の不満を生むかもしれない…。
(中略)
ともかく、とりあえず、どちらか一方のみとなると、大手軍の総大将の範頼に軍配が上がり、義経については「また次の機会に」との考えがなかったとも言い切れないように思われます(「一ノ谷の逆落とし」自体が虚構の可能性もあり、義経の戦功が突出したものであったかどうかも疑わしいですし…)。
少し頼朝贔屓の見方かもしれませんが、必ずしも絶対君主ではない、微妙なバランスの上に立つ武家の棟梁とすれば、身内だからこそ、「ここは少し我慢してもらうか…」との甘えもあったのではないでしょうか。が、人の心というのは、推挙すればしたで、身内贔屓と警戒心を抱くくせに、推挙しなければ、今度は、両者の不和を囁き合ってみたり…と、何かと面倒なもの。また、こちらがどうにか苦心して良いようにするつもりでいたものを、他人の力であっさりと思い通りにされたのでは、面白くないという気持ちにもなりますし、そうした周囲の思惑に振り回される形で、互いに疑心暗鬼に陥り、取り返しのつかない亀裂を生んでしまった…ということも考えられるように思われます。

簡単にまとめると、頼朝は御家人に担がれた御輿であり、それゆえに身内優遇を抑制したのではないか、というところでしょうか。
頼朝に御輿という側面があったとは思うのですが、御輿もただ言うなりに担がれているわけではなく、担ぎ手をどのようにコントロールするのかを考えるのが歴史の常です。さて、この件においてはどうでしょうか。
元暦元年(1184)6月任官の3人*1、さらに翌文治元年(1185)8月任官の6人*2、頼朝の推挙によって国司に任官されたのはいずれも源氏一門であります。このことから、頼朝には源氏一門を「門葉」として御家人の中でも特別な存在として編成する意図があったことが指摘されています。というわけで、今回の三人国司は御家人統制の面が強いのではないでしょうか。ちなみに文治二年(1186)2月、豊後守に推挙された毛呂季光は藤原姓ですが、准門葉*3と位置づけられています。
それから、頼朝が恩典を授けるのは源氏でも「自分に従う」者に限るということ。除目の結果が届く4日前の元暦元年(1184)6月16日に甲斐源氏の一条忠頼が頼朝の面前で誅殺されています。これが前々月の清水義高誅殺、前月の信濃・甲斐への軍勢発向と関係があるのかどうかは定かではありませんが、この後も甲斐源氏には厳しい処遇が続くので、可能性はありそうな気もする。


そうなると、どうして義経が外されたのか。まずこのときの枠は3つより増やすことが出来なかったのではなかろうか。三河駿河・武蔵の三ヵ国は、このとき関東御分国として与えられたもののようで、その権限に基づいた推挙と思われます。この辺は頼朝の一存で決められることではなく、朝廷と頼朝の間でやりとりの結果でしょう。そうなると、義経が推挙に預かるには3人のうちの誰かを蹴落とさねばならない。兄範頼を差し置くのも差し障りがあろうから、平賀義信源広綱との比較になると思いますが、微妙なところですね。
平賀義信は頼朝の信頼厚い源氏の長老。比企尼の女婿というだけでなく、父源義朝の代からの関係。息子たちも厚遇を受けています。長子・大内惟義は源義経の伊予守任官と一緒に相模守に任官されているし、この時期には伊賀守護として活躍。弟の平賀朝雅も武蔵守を継承し、京都守護を務めるなど順調な昇進ぶり。彼が牧氏の変に巻き込まれたのも、その勢威あったればこそかと。
一方の源広綱はというと、源頼政の子であり、長兄仲綱の猶子。だが正直彼の印象というか存在感は薄い。彼が何故厚遇を受けたのか推測するに、頼政摂津源氏の代表としての貴種性だろうか。頼朝は以仁王令旨を奉じたのだから、その挙兵を支えた源頼政の遺児を保護し、遇していくことは正統性をアピールすることに繋がるかと。鎌倉には、源頼政と関係の深い八条院と繋がりのある武士も多いのですしね。
こうして頼朝は彼らを比較検討した結果、義経については「また次の機会に」と甘えた可能性もあるような気もします。


なんにせよ、頼朝にどんな意図があろうと選から漏れたとなれば、頻りに推挙を望んでいたという義経が不満に思っても仕方のないことであるように思います。「義経は兄の心が分からなかった」ので云々というような意見が主流かと思いますが、「頼朝は弟の心が分からなかった」こちらの側面の方も併せて語るべきではないか、いやむしろこちらの側面の方が重要ではないか、義経が挙兵に踏み切ったのも評価が低いことへの不満が根本ではないのか、そういう気がします。
ただし『源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― (角川選書)』で菱沼氏が説く、左衛門尉・検非違使任官が、頼朝の同意を得たもの、またはその意思を含んだ処置であるとするならば、また話は変わってくるかと思いますが、どうも私はまだここまで踏み込んで考えきれない。当時、頼朝は自由任官について統制しきれなかったのでないか、不満はあっても黙認せざるを得なかった可能性はどうか、ここら辺をクリアーしていかないといけないかな。

平宗盛には狼狽がよく似合う・・・カモ

印象薄かったんで忘れておりましたが、またまたやってくれました。予想*4とはちょっと違う展開でしたけど。
平維盛屋島を去ったのは何故かと問われて


「つ、経子どの、なにか、この儂がなにか!」


この後すぐ平知盛のフォローが。今回は誰も宗盛タンを責めていなかった模様。どうやら被害妄想だったらしいです(笑)。
今後も、壇ノ浦での生捕り、頼朝との対面、そして斬首と楽しみなシーンが目白押し。私にとっては数少ないドラマ鑑賞としての楽しみ。(^^;

*1:源範頼源広綱平賀義信

*2:山名義範・大内惟義・足利義兼・加賀見遠光・安田義資・源義経

*3:吾妻鏡』建久六年(1195)1月8日条。

*4:義経 第22回「宿命の上洛」 - 日本史日誌