日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

佐々木導誉/森茂暁/人物叢書

佐々木導誉 (人物叢書)

佐々木導誉 (人物叢書)

  • 第一、父祖の足跡
  • 第二、導誉登場
  • 第三、動乱のうずの中へ
  • 第四、武家権勢導誉法師
  • 第五、領国・所領の支配と被官
  • 第六、導誉の家族
  • 第七、「ばさら」と文芸
  • 第八、導誉の晩年


佐々木京極氏のもともとの本拠は近江国柏原荘だそうで、柏原(米原市)には現在も京極氏の菩提寺・徳源院があって京極氏歴代の墓塔がズラリと並んでいるのですが、昨秋訪れた際*1には全くそのようなこと思いも及びませんでした。でもまあよくよく考えてみれば当然のような気もしますね。


さて、鎌倉時代の京極氏といえば佐々木氏庶流でありながら、得宗家に接近することで評定衆などの要職を務める有力御家人の家柄ですが、鎌倉時代の佐々木道誉は今ひとつパッとしない。特に要職も務めていないし。そもそも、彼は京極氏でも傍系に当たり、養子として当主の座に着いたのだという。アクの強い婆娑羅大名の彼が養子というも、なにかこうピンとこない(笑)。
さらに建武政権下でも、雑訴決断所のメンバーに入るものの、その他佐々木氏一門との差はない。彼がメキメキ頭角を現してくるのは室町幕府においてのようです。それも南北朝の動乱から観応の擾乱に至るまで、一貫して足利尊氏を支持し続けたことが大きそうだ。


本書を読むにあたって最も注目していたポイントは、先々週に読んだ論文*2で興味を持った近江守護に関すること。佐々木氏惣領六角氏との関係も含めて注目していたのですが、これが思いのほか言及が少ない。
ひとまず分かったこととしては、佐々木道誉が近江守護に補任されたのは建武五年(1338)における約半年のみだということくらいか。北近江における軍事指揮権に関することには全く言及がなかった。
六角氏との関係もいまひとつ見えてこない。ライバル関係にあったようにも見えるが、かといって深刻な対立には至らない。六角氏は、建武政権の崩壊によって六角時信が、観応の擾乱によって六角氏頼が、それぞれ失脚するものの没落することなく近江守護を保持しつづけている。佐々木道誉は六角氏を佐々木氏惣領として立てて、支援していたのだろうか? 気になることが増えてしまった。