日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵/尾下成敏/ヒストリア(214号)

今日も引き籠もりだったので、久しぶりに論文紹介でも。


2009年の論文。天正九年(1581)とされてきた羽柴勢の阿波出兵は、根拠とされてきた文書の年次比定が誤りであり、実際には翌年の天正十年(1582)本能寺の変後であるとのこと。
また、淡路出兵については、天正九年の制圧後、仙石秀久が在国したとされてきましたが、その確証は見出せず、これも翌天正十年のこととのこと。


さて、これにより影響を受けるのが本能寺の変についての見解。四国問題を主要因とみるのが近年の主流ですからね。天正九年の羽柴勢の阿波進出が、織田・長宗我部の関係決裂を招き、それによって対長宗我部氏の交渉を担っていた明智光秀は秀吉との政治的抗争に敗北。立場を失った光秀がクーデターに及んだ・・・という見解については、見直しが必要となるでしょう。
ただ、羽柴勢の阿波進出が無かったとしても、織田・長宗我部の関係は天正十年には決裂しているので、四国問題を主要因とみることに問題はなさそう。


桐野作人氏も、以下のように述べておられます。

拙著での記述が尾下論文によって批判されたわけだが、じつはむしろ有難く、拙論を主張するにあたって、かえって状況はクリアになったと感じている。
(中略)
四国問題に関しては、信長の政策転換と明智家中のそれへの反発という構図がはっきりと浮き彫りになった、別の言い方をすれば、秀吉という「夾雑物」が除去されてクリアになったと感じている。

膏肓記 羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵